清水幾太郎(著)『論文の書き方』(P.81)より。
私たちは日本語に慣れ切っている。幼い時から、私たちは日本語を聞き、日本語を話し、日本語を書き、日本語で考えてきた。(中略)私たちは日本語に慣れ、日本語というものを意識していない。しかし、その日本語で文章を書くという時は、この日本語への慣れを捨てなければいけない。日本語というものが意識されないのでは駄目である。
ではどうすれば日本語への慣れを捨てることができるのか?
日本語を自分の外部の客体として掴むというチャンスは、普通は、私たちが外国語を勉強する時に訪れるものである。
たくさんの方がこのようなことを言っています。英語 vs 日本語の問題について。
※ この記事はI は自己主張する? 〜英語の論理、日本語の論理(1)の続きです。
さて。
前回、引用した荒木博之(著)『日本語が見えると英語も見える』の一節、
・・・「弟と代わりますから」という文を、日本人がなかなか英語に移すことができないのは英語という言語が常に自分と他者、I と you とを確認しながら発語される言語であるからである。英米人が I というときは、他者でも第三者でもなくゆるぎなくその存在価値を主張している自分自身なのであり、you というときは、自分自身の前にあって厳然とその存在を主張している他者なのである。
これを読んだとき、電話でのことか?それなら、こうだろう。
I'll put [get] my brother on the line [on the phone].
これは論理というより、「この表現、英語でなんと言う?」という英会話の問題だ、と。
だから「他者、存在価値、主張」なんて大げさじゃないの?と思いました。
しかし、荒木さんがおっしゃっているのは次のようなこと。
「代わる」などという、日本的、自然展開思考的表現とはきっぱりおさらばをしなければならない。
そういった「中間日本語」は次のごときものになるだろう。1・私はあなたに弟と話をしてもらいましょう。
2・私はあなたに弟と話してほしい。
3・私の考えでは弟はあなたと話したいと思います。
4・多分弟はあなたと話したいでしょう。「なんだこんな日本語ならば中学三年生でも英語にできるじゃないか」、このようにお思いになった読者の方々も多いであろう。
まさにその通りでこんな英作文は中学三年でもできるのである。
それぞれの英訳は次のようなものである。続きを読む>>