洋書を日本語の本と同じように(自分は)読めないので、当然、勉強しなくてはなりません。
でも、ヤル気がなくなるときがあります。多い月には31日ほど。
そういうとき、読む本が何冊かあります。
田島伸悟(著)『英語名人 河村重治郎』も、その一冊。
残念なことに今では絶版状態なので、これから何回かにわたり、その中身を紹介していこうと思っています。
※ 以下、引用文はすべてこの本から。
福井中学校教諭時代の河村重治郎 ※ 『英語名人 河村重治郎』の扉絵より。
『英語名人 河村重治郎』については、以前、カレッジクラウン英和辞典と英語職人という記事で触れたことがあります。
興味がありましたら、まず、そちらをぜひ。
さて。
河村重治郎(1887〜1974)が亡くなったとき、教え子の彫刻家・高田博厚が寄せた追悼文。
私は越前産で、大正七年に福井中学を出たのだが、入学した時は十番以内で、卒業の時は尻から十番以内だった。
・・・・英語はできたというよりも、洋書を読みたかったので勉強した。
英語の先生は五、六人いたが、河村先生というのはずばぬけて出来た。
「西洋人」みたいな顔立ちで「混血(あいのこ)」ではないかと生徒たちは噂していた。
中学の悪童どもは新任の先生が来ると、即座に仇名(あだな)を付け、あそこに少年の本能感覚が優れた要素が現れている、と私は思うが、六十年たった今日でも仇名はよく覚えており、本名の方は思い出せない。
河村先生は「ハイカラさん」というのだったが、他の「樽(たる)の口」とか「まぬけ」とか「もぞ」とか「冠鳩(かんむりばと)」とかいうのに比べると、敬意を表した命名である。
福井中学とは、現在の藤島高校で、さらにたどれば江戸時代、橋本左内が学監を務めた明道館である。
戦前の中学といえば、今でいう、有名国立・私大に入るようなもので、将来のエリートたちが集まるところであった。
高田博厚の追悼文の一部を読めばそのすごさがわかる。
一週一回だったが、先生の家へ行って、その頃私が読んでいたオスカー・ワイルドの獄中録「デ・プロフォンディス」を、先生の前で訳読するのである。
先生はただ「うん、うん」とうなずきながら聴いている。
私はもうダンテやゲェテやニィチェを読んでおり、シェークスピア、トルストイ、ドストイエフスキーなどは英書で読んでいた。
当然、成績がすべての世界。
教室内の席もその順に並べられ、講堂などに集合するときの整列順序も、その成績順そのままだったという。
例外は体操の時間だけで、この時は背の順だったようだ。
成績も悪く、背も小さいとなると、もう救われようがなかった。
教師も生徒も、この成績順配列を当然のように受けとめていた。
すべての生徒が選ばれた者たちであり、能力は等しく持っていて、成績は努力いかんであるという前提があったのだろう。
それでは重治郎はどんな教師であったのか。
後年、教え子の石田和外が最高裁長官に就任した際、お祝いの会が開かれたが、重治郎は出席を断わったという。
理由を問うと、「わたしは、そんなりっぱな教師じゃありませんでした」と、重治郎は真顔で答えた。
重治郎の性格とは。
入念巧みな授業は多くの生徒を引き付けたであろうが、本来あまり英語の得意でない生徒には怖い存在であったろう。
重治郎には気の短い一面があって、時間をかけて根気よく相手を教え諭すところがなかった。
晩年にはずいぶんと温和になったようだが、それでも相手がぐずぐずとわからぬことを言い続けたり、曖昧なことを繰り返すと、眉のあたりに皺を寄せてぴしゃりと決めつけるところがあった。
若いころの厳しさが思いやられる。
自身が教師である、著者田島さんの次の記述は興味深い。
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