山崎貞『新自修英文典』(大正10年)の「はしがき」。
生れ落ちるから日夕親しんでいる自国語なら、別に文法などやらないでも相応に使いこなすこともできよう。しかし他国語を学ぶのに母国語に熟すると同じやり方で行けというのは、その国に生まれ変われというに等しく不可能である。日本人が英語を学ぶのはたいてい十三、四歳中学に入ってからで、それも一週わずか数時間に過ぎず、英人につく機会などは全然ない者が多い。そういう境遇の者にいわゆる自然法を強いるのは、その愚や誠に及ぶべからずである。
「いわゆる自然法」というのは、英語圏の子供たちが英語を学ぶように、ということでしょう。
『アメリカの子供はどう英語を学ぶか?』みたいなタイトルの本を、今ではよく見かけますが、そういう主張、大正時代からあったんですかね?
「はしがき」の中の言葉。
英人につく機会など全然ない者が多い。
英人。
今なら「英米人」あるいは、「アメリカ人」でしょう。時代を感じますね。
それはともかく、今の中学・高校生は、英米人と接する機会がどれぐらいあるのでしょうか?
大正時代とそれほど変わっていない気がしますが。
大人になれば、その気があればいくらでも英米人と接することができますからね。
駅前留学(← 禁句?)とか。
ところで。
山崎貞『新自修英文典』の「はしがき」にはこういうことも書かれています。
要するに、われわれが英語を学ぶには、一方文法に通ずるとともに、一方なるべく多くの書を読み文を作り、ただちにその文法の知識を応用して行くのが最上の方法である。
今でもこの考え方は続いてますね。
正論だと思います。
一方。
酒井邦秀『さよなら英文法! 多読が育てる英語力』の「この本を読むみなさんへ」の一節。
わたしは『どうして英語が使えない?』の中で、
学校英語は実際には使われない人工言語である
と書きました。もしその主張が妥当だとすれば、学校英語を勤勉に学習した人たちほど、その害を大きくこうむっており、奇妙な英語理解を持っているはずです。
なんか、自分に向かっての言葉のようで...
勤勉には勉強しませんでしたが。
それはともかく。
学校英語は実際には使われない人工言語である
多少、実感しますが、「さよなら英文法!」とまで断言していいのでしょうか?
酒井さんが著書の中で批判している渡部昇一さんという方がおります。
その渡部昇一さんと、同時通訳で有名な松本道弘さんの対談本、『英語の学び方』の中に出てくる話。
英文法と英会話についてのことです。
渡部 ぼくは、即コミュニケーションになるとはいわないわけ。
学校で基本的なことをしっかり積んでおけば、しかるべき機会があれば、非常によく伸びる、こういっているんですね。
ちょっと表現は違うかもしらんけれども。これは幸いにして、うちの子供で実験する機会があったんです。
イギリスに行ったときに、長女はちょうど高校に入学したばかりだから、中学の文法を仕上げて、入試を受けてパスしたばっかり。
次の男の子は中学二年、これは英文法を半分くらいやっている。
下の子は小学五年で、何もやっていない。上の子は、一応文法を三年までやって、わりとむずかしい高校といわれているところを一所懸命やって受けたものだから、まだ文法が生きておるんですよ。
パターンがみんな入っている。
たちまち友だちができて、作文なんか書いて、向こうの先生向けに(※ママ おそらく「向こうの先生向けの」)雑誌に出されたりね。
ぼくが手伝ったんじゃないですよ。
学校生活にスーッと入っちゃった。続きを読む>>