洋書と英語の日々


酔人独語


常在戦場。

長岡藩、つまり、江戸時代に、現在の新潟県の長岡市あたりにあった藩ですが、この藩出身の人はみな、この四字「常在戦場」を好んでいました。

常に戦場に在り。

太平洋戦争の連合艦隊司令官、山本五十六(いそろく)も長岡藩出身で、「何か書いてくれ」と頼まれると、いつも「常在戦場」と書いていたそうです。

ちなみに五十六という名前は、父の貞吉が56歳の時に生まれた子だから、「五十六」。

五十六の長兄、譲(ゆずる)とは32歳も年が離れていました。

それにしても。

山本五十六ほど、常に戦場にいなかった司令官はいない。

常に、戦地から遠く離れ、戦艦の中に引きこもって賭け事ばかりしていました。愛人をそばに置いて。

衝撃を受けたひと言

誰でもそうでしょうが、自分も子供のころ父とお風呂に入っていました。

3年生ぐらいだったと思いますが、父から衝撃的な言葉を聞きました。

「日本は戦争に負けて良くなった」と。

それがどれぐらい衝撃的だったかというと、父はその他にもいろいろな話をしてくれたと思うんですが、「そのひと言」以外、まったく覚えていないんです。

覚えているのは、「兄弟舟」など、演歌を歌う父の姿のみ。

なぜ「そのひと言」が衝撃的だったかというと、子供心に、「戦争に勝って良くなった」なら理解できたと思いますが、「負けて良くなった」は「???」と。

子供ながらも多少はあったであろう思考回路では、理解不可能でした。

それ以来、ずっと疑問を持ち続けていました。

なぜ日本は戦争をし、なぜ負けたのか...。

少しずつですが、わかりかけてきたので、終戦記念日(八月十五日)にでも記事を書こうかと思っていました。

ですが...。

戦争について

七月の終わり頃から書き始めたものの、かなり長い記事になってしまって。

はて? どこを削ろうか...と悩んでいたところ、いつの間にか八月十五日は過ぎてしまいました。

余談ですが、本当の終戦記念日は、「ミズーリ号」での降伏文書に日本が署名した、九月二日だと自分は思います。

※実際、外国の本では日本の敗戦をは九月二日としているものも多いです。

そんなわけで記事をアップし損ねたものの、日露戦争・日清戦争などの本を読み始め、今は「開国」、さらにさかのぼって、なぜ「尊王思想」が出てきたのか、を考えているところです。

ところで。

日本はなぜペリーの要求を受け入れ、開国せざるを得なったのか?

となりの人に聞いたら、

戦っても勝てないから。

という、30点な答えが返ってきました。

「軍艦は造らせない」というのが江戸幕府の政策。

一応、江戸湾には砲台場はありましたが、その射程距離は、ほとんどが1キロ以下。

いっぽう、欧米の軍艦に積んである大砲の射程距離は3キロ以上。

これでペリーの勝ち決定。

日本には軍艦はありませんから、2キロ離れた海上で、なんの心配もなく、ドンドンと江戸湾の砲台をすべて破壊。

ああ...日本には、もはや近寄る軍艦を攻撃する手段なし。

築地からだったら、江戸城まで2キロぐらいでしょう。

ペリー艦隊には3キロの射程距離を持つ大砲が。

というわけで、勝敗は火を見るより明らか。

大砲といえば。

湾岸に備え付けの大砲ではなく、持ち運ぶ大砲もありました。

まあ、その威力といえば、鉄の陣笠をかぶっていれば、当っても気絶するぐらい、命に支障なし、というレベル。

それを引っ張るのは、牛。

これは50年後の、ソ連との武力衝突、ノモンハン事件(1939年)の頃になっても同じ。

引っ張るのが牛から馬に代わっただけ。

日本は第一次世界大戦に(実質)参戦しなかったので、近代兵器にだいぶ立ち遅れました。

とくに戦車が。

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