福沢諭吉は20世紀の幕開けとなる1901年に他界しました。
ペリー来航(1853年)から第二次大戦の敗北(1945年)に至る約100年、日本は激動の時代でした。
福沢はその前半、徳川幕府の崩壊、「近代日本国家」の誕生、帝国主義国家への変貌の時期を生きたことになります。
といっても、日本の歴史について書くつもりではありません。
あくまで、英語に関係する話を中心に書く予定です。
欧米との接触により、日本の学問は、漢学から英語(当時は英学と言っていた)に主体が移っていきます。
そこで、日本人が英語学び始める過程を、福沢諭吉の生涯を通して、追っていこうと思っています。
◇これから福沢諭吉の自伝、『福翁自伝』(岩波文庫版)を引用しながら、諭吉の生涯を追っていきます。
※ ルビは( )内にしました。ただし、ルビが文庫版についていなくても、かなり自分でつけくわえました。『福翁自伝』以外の本も同様。
福沢諭吉は天保五年(1835年)に大阪で生まれました。
まだ'開国騒動'で日本国中が大騒ぎになる前の、平穏な徳川時代に少年期を過ごしたことになります。
父は豊前中津藩(現在の大分県中津市)の士族、福沢百助。母は同じ中津の士族で、橋本浜右衛門(はまえもん)の長女、於順(おじゅん)。
諭吉は五人兄弟の末っ子でしたが、数え年三歳、今の満年齢でいうと、一歳と六ヶ月で父が病死してしまう。
そして、福沢家は母子、六人で中津藩(今の大分県中津市)に戻ることになる。
諭吉の父、百助は根っからの儒教主義者。
金銭なんぞ取り扱うよりも読書一偏の学者になっていたいという考えであるに...
父・百助の主な仕事は、鴻之池といった、今でいう財閥のようなところへ、藩のために金を借りにいく役目でした。
相当、不満だったことでしょう。
今の洋学者とは大いに違って、昔の学者は銭を見るのも汚(けが)れると言うていた純粋の学者が、純粋の俗事に当るという訳(わ)けであるから、不平も無理はない。
子供たちが九九を習っていると、「幼少の子供に勘定のことを教えるというのはもっての外だ。怪しからぬ」と連れ出したこともあったそうです。
その書き残したものなどを見れば真実生銘(しょうみょう)の漢儒で...その威風はおのずから私の家には存していなければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合(つきあい)は少なく、明けても暮れてもただ母の話を聞くばかり、父は死んでも生きているようなものです。
諭吉には父の記憶はありません。
一歳半のとき、百助は他界していますから。
明けても暮れてもただ母の話を聞くばかり、父は死んでも生きているようなものです。
「死せる諸葛(孔明)生ける仲達を走らす」ならぬ、「死せる百助生ける諭吉を走らす」ですね。
福沢諭吉といえば、経済の重要性を声を大にして唱えた人物ですが、母から聞いた、父の思い出話が影響したのかもしれません。
なんせ、百助は、
金銭なんぞ取り扱うよりも読書一偏の学者になっていたいという考えであるに、存じ掛(が)けなく算盤を執(と)って金の数を数えなければならぬ...
生活を送っていましたから。
父は仕方がなく、藩の勘定担当を勤めていましたが、その子、諭吉は積極的に「金勘定」の重要さを唱えています。
たとえば、『学問のすヽめ』では、商売の棚卸(たなおろし)にまで言及。
...故に商売に一大緊要なるは、平日の帳合(ちょうあい)を精密にして、棚卸の期を誤らざるの一事なり。
※帳合とは、今でいう複式簿記。
金勘定が大嫌いだった父が後年の諭吉を見たらどう思うでしょう?
いわんや、諭吉の顔が一万円札に刷られているのを見たら!
ところで。
ペリーでも誰でもいいんですけど、もし日本に「開国」を迫る国がなかったら、江戸幕府は延々と続いたことでしょう。
今でも続いていたかもしれません。
それはともかく、諭吉は封建制度を憎んでいたようです。
封建制度では、子は生まれながらにして、親の跡を継ぐことが運命づけられていました。
出世するには学問の道がありましたが、荻生徂徠などは例外として、ほとんど出世の道は閉ざされていたのも同然。
こんなことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。また初生児(※諭吉のこと)の行末(ゆくすえ)を謀(はか)り、これを坊主にしても名を成さんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深き、私は毎度このことを思い出し、封建の門閥(もんばつ)制度を憤(いきどお)ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私のために門閥制度は親の敵(かたき)で御座る。
ですから、その門閥制度が滅んでいく明治維新が痛快でたまらなかったようです。
明治維新の世の中と為(な)りて、維新怱々(そうそう)門閥廃止の端緒を聞きたるこそ千載(せんざい)の大愉快なれ。当時洋学者流の心事を形容すれば、恰(あたか)も自分の綴(つづ)りたる筋書を芝居に演じて其(その)芝居を見物するに異ならず。
―『福翁百余話』