外国語を学ぶ、そのきっかけは?

While I was growing up in New York someone told me that if I dug a deep enough hole in the garden I would eventually reach China. Japan seemed even farther away.

ニューヨークで少年期を送っているとき、こんなことを言われたことがある。庭に穴を掘って掘って掘りつくすと、最後には中国に辿り着ける、と。日本はまだ遥か彼方にある存在であった。

ドナルド・キーン(Donald Keene)さんの『On Familiar Terms』の書き出しです。

満州事変が起こったときの感想。

Japan seemed like a very frightening country. I am sure that if anyone had predicted at the time that when I grow up my life would be devoted to Japan, I would have been absolutely astonished.

日本に対する印象は、身の毛がよだつような国であった。だから断言するが、その当時、誰かに「君が大人になったら、その後の人生は日本に捧げられることになるよ」とでも予言されたら、さぞ仰天したに違いない。

しかし、この英文の架空の予言者の言葉はピタリと当りました。

外国語としての日本語

中公新書『私の外国語』に収録されている、キーンさんの「日本語のむずかしさ」は、どうして外国語を学ぶのか?ということに関して、実に興味深い。

もちろんキーンさんは日本語を外国語として学んだわけで、日本人が英語を学ぶのとは逆ですが。

日本語のむずかしいところは?

日本語のむずかしさは、単語や文法によるものよりも、むしろ表現の仕方によると思う。
西洋文学にはどうしてもなくてはならない表現の一つは、英語の I love you で代表される。
外国で日本語を習った人なら、「私はあなたを愛します」と訳すのだろうが、日本文学にそういう表現がぜんぜんないと思う。

この、I love you の問題については以前書きました。
※ 参照 - 拙記事 I は自己主張する? ~英語の論理、日本語の論理(1)

I love you.
日本語では「あなた」も消えたほうが座りがよい。

当方、「好きだ」や「愛してる」なる野暮ったい言葉は言ったことがないが。

英米人としてフランス語、ドイツ語、ロシア語などを学ぶ場合、英語に適当する言葉をその国の文法に従って並べると正しい表現に成功するが、日本語の場合、あったこともないバタくさい文句になってしまう。
むかしの日本語なら「いとしや」というような表現を使ったのだろう。
つまり、英語の主語、動詞、目的語に適当する文句は形容詞と感嘆詞になる。
現代の日本語なら、「君が好きだ」とか「ほれた」などと言えるが、英語になくてはならない主語の「私」が完全に消え、場合によってはたいせつな相手の「あなた」も消える。

日本語では、主語はなるべく顔を出さないほうがいい。
冒頭で引用した『On Familiar Terms』からの英文。
原文では I が6回出てきますが、あえて一人称を使わずに訳しました。
それでも意味は通じると思う。

人称代名詞にはなるべく引っ込んでもらう。
これは日本語の特徴かと。

逆に英語では S V O をはっきりさせたほうがいい。

「どんな料理が好き?」 「寿司」という会話なら、

"What's your favorite food?"

"I like sushi."

となるだろうが、英語では I like があったほうが座りがよい。

日本語の「ぼかし」

・・・美しい日本語なら、あいまさを嫌うどころか、なるべく表現をぼかすのだ。
数年前に日本人に手紙を出したが、その中に「五日間病気でした」と書いたので、友人は「日本語としては正確すぎる」と言って「五日ほど」と直してくれた。

「ほど」は「おおよそ」の意味ですが、きっかり五日間でも「五日ほど」にしたほうが日本語らしいというのは面白い。

この「ぼかす」典型は、英語の will の訳「でしょう・だろう」だと思う。

It will rain tomorrow.

を、「明日は雨でしょう。」と日本では訳す。

COD(11th)で will の定義をみると、

expressing a strong intension or assertion (主張) about the future.

espressing inevitable events.

となっている。storong と inevitable という形容詞からすると、かなり確信度は高い。

お天気お姉さんがテレビで、

午後には雨になるでしょう。

と言う。降水確率を見たら100%になっている。
なら「なります」と言えばいい。

まあ、お天気お姉さんは可愛いから目にも耳に心地よいが。

I'll kill you!

を「私はあなたを殺すでしょう」と訳す人はいないと思うが、will = 「でしょう・だろう」は改善すべき。

前々から気になっている、この will の問題についてはそのうち記事にしたいと思います(← これも「ぼかした」表現)。

日本語の「だろう」。

国語辞典で調べると「不確かな断言」などと定義している。
不確かな断言とは摩訶不思議だが、「だろう」は、「断言ではあるが、あえて不確かなようにぼかした表現」が正しいのだろう。

外国語の向き・不向き

日本語のむずかしさを書きだすとキリがない。
それで、外国人はどうしてあんなとほうもないむずかしい日本語を習うのか、という疑問が自ら湧くだろう。
「どうして」はいかにも日本語的な言葉で「どういう方法で」と「なぜ」という意味を兼ねるが、両方の質問に意義がある。
が、なによりもさきに、どういう外国人が日本語の勉強に向いているかという問題がある。

『源氏物語』を最初に英訳したアーサー・ウェイリー(Arthur David Waley 1889-1966)が何がきっかけで日本語を学んだのか、キーンさんの『日本人の質問』(朝日選書)に書かれています。

最後に私にとって大変近い人、もう十五年前に亡くなりましたが、英国人アーサー・ウェリーさんについてお話したいのです。
彼は『源氏物語』や『枕草子』などの翻訳者として日本でも有名ですが、非常に変わった学者でした。
ウェリーさんは大英博物館に勤めていたのですが、ある日、錦絵を見せられて質問を受けました。
ところがそこに書かれていた歌が読めなかったので、語学の天才のウェリーさんのことですから、やはり日本語は覚えた方がよいと思い、さっそく独学でやりとげてしましました。

なにそれ? そんなきっかけでいいの?なレベル。

正宗白鳥(1879-1962)でしたか、確かウェイリーの英訳を読んで初めて『源氏物語』の面白さがわかったと書いていました。

『源氏』に限らず、古文は基本、敬語で主語を判別しなくてはならない。
自分は『源氏』を注釈書片手に(というか両手に)『源氏』を読んだ。
そのあとサイデンステッカー (Edward G. Seidensticker)さんの英訳を読みました。
※ 参照 - 説記事 英訳『源氏物語』

原文(日本語の古文としての原文)と英訳と見比べながら読みましたが、思ったのは、いい意味で「別物」。

英訳ではセンテンスの順番が入れ替わったり、原文にある文章を省略したり、逆に膨らませたり。

それはさておき。

キーンさんは戦前から日本語を学んでましたが、戦中の学び方はすごかった。

・・・海軍の日本語学校にはいり、一年ほど猛烈な勉強が始まった。
毎日、四時間の授業(読本、会話、書取り)があって、七、八時間の準備も要求された。

一年間、毎日ですよ。予習に7、8時間。
授業4時間として、残り20時間。睡眠8時間なら、残り12時間。
生活のための時間としては、なんだかんだで3時間はかかるでしょうから、自由時間のほとんどを「準備」に費やしていたことになる。

軍隊でしか出来ないことでしょう(← これ、あえてぼかす「でしょう」)。

言語にほれる

「戦争が終わると多くの通訳はせっかく覚えた日本語を喜んで忘れた」のに対し、

私を含めた少数の通訳は日本語を勉強すればするほど興味は高まり、敵国である日本に対してますます愛情を感じるようになった。
ハワイにいたあいだ、毎週の一日の休暇を『源氏物語』の勉強にささげた。
除隊になると大学にもどり、日本文学を専攻することにした。

なぜ日本文学を専攻したのか?

自分のことを実例としてあげれば、頭の構造は日本語の勉強に適しているといえる。
つまり、自然科学には興味ないし、哲学や経済学はわからないが、頭の中にいろいろのめずらしい知識をためることが大好きだ。
(中略)
書きにくい、画の多い字をなによりも喜んで、欝のような字をすらすら書けるようにした。
(中略)
旧仮名づかいも気に入り、現在でも使いたがる。
要するに、日本語にほれた。

要するに、日本語にほれた。

ん・・・。

なんだか情緒的。

「好きだ」や「愛しています」などバタくさいこと言わずに、告白するときにはこう言ってみては?

要するに、ほれた。

「要するに」が効く(はず)。

それはともかく。

要するに、英語にほれた。
『日本人の質問』にも同じようなことが書かれています。

私自身は、戦時中アメリカ海軍の日本語学校で十一ヵ月徹底的に日本語の勉強をさせられました。
その時は日本語そのものに関心があったのですが、自然に日本文化、日本文学にも深い関心をもつようになり、一生の仕事として日本を研究する決心をしたのです。
 それは終戦直後のことでしたから、日本が立ち直ることはあり得ないと考えられていましたので、当時の人からは私は気違い扱いされました。
今でこそ、このような日本の繁栄を見て私に先見の明があったと誉めてくださいますが、私は好きで好きでどうしてもやりたかったというのが本音です。

冒頭に引用した、

Japan seemed like a very frightening country. I am sure that if anyone had predicted at the time that when I grow up my life would be devoted to Japan, I would have been absolutely astonished.

と、

今でこそ、このような日本の繁栄を見て私に先見の明があったと誉めてくださいますが、

の対比が面白い。

それもともかく。

私は好きで好きでどうしてもやりたかったというのが本音です。

言語に対してなら素敵な表現ですが、好きな人に対して使ってはいけませんよ。

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