I は自己主張する? ~英語の論理、日本語の論理(1)

・・・「弟と代わりますから」という文を、日本人がなかなか英語に移すことができないのは英語という言語が常に自分と他者、I と you とを確認しながら発語される言語であるからである。英米人が I というときは、他者でも第三者でもなくゆるぎなくその存在価値を主張している自分自身なのであり、you というときは、自分自身の前にあって厳然とその存在を主張している他者なのである。

荒木博之(著)『日本語が見えると英語も見える』の一節(P.50)である。

英米人が I というとき、そんなに「ゆるぎなくその存在価値を主張している」のであろうか。

また、西洋人は the ego (自我)や identity を持っているのに対し、日本人にはそれがない(少ない)ともよく言われる。
果たしてそうだろうか。

I の存在感

新津信治・里中哲彦(共著)『たたかう英文法』より。

新津 : 英米人は個人主義的発想、日本人は集団志向的発想みたいなことを言う人たちがおるやろ。
英語の<I>は個人主義のシンボル、主語を立てて話さへん日本語は「和」の象徴みたいに捉える発想。
ホンマにそうかなあ、とまえまえから思うてるんです。
里中 : 文化人類学がお得意の二項対立的な世界観ですね。
比較文化というと、すぐキャッチフレーズみたいなもんをつくりたがる。
「個人主義」対「集団主義」、「明晰志向」対「曖昧志向」みたいにね。
異文化を見るときは、互いを単純化して見ようというのはわかるけど、すくった指先からこぼれ落ちるものがなんと多いことか。
<I>については、わたしも同感ですね。
<I>は、自分を強調しているわけではないんですよ。
It' still rainging. (まだ雨が降っている)の It と同様にね。
彼らの意識のなかには、強い自己の主張なんていう発想はないと思いますね。
新津 : そう。たとえばね、「ここ、どこ?」って言ったときに、Where is here? なんて言われへんもんやから、、彼らは Where am I now? とか、Where are we now? って言う。
仕方なく<I>を使うてる。
発音するときも、<I>にストレス(強勢)は置かれへん。
<I>に存在感なんかあらへん。
何人かのアメリカ人に聞いたけど、いま里中さんが言ったようなことを言うてます。
自己をきわだたせて「わたしはね」という場合は、<I>にストレスを置いて大きな声で言うか、書き言葉やったら、As for me とか in my view, In my opinion とか In my case を使うと言うてる。

再び、『日本語が見えると英語も見える』(P.191-192)より。

日本語では「好きです」という I も you もない不思議な文章が成立するが、英語では I love you. と I も you もしっかり表現しなければならない。
しっかり表現しなければならないということは、I は you でも、第三者でもない動かし難く存在している自分自身であるのに対して、you は、自分自身でもなく、第三者でもなく、環境でもなく厳然とその存在を主張している対者なのである。

「好きです」。どこが "不自然な" 文章なのか。
「私は(僕は、俺は、etc)あなたが好きです」。日本語としては、逆にうるさい。

それに、「好きです」と(日本語で)言った話者は英語と同じく、

you でも、第三者でもない動かし難く存在している自分自身

だし、聞き手も同じく、

自分自身でもなく、第三者でもなく、環境でもなく厳然とその存在を主張している対者

であろう。
まさか路傍の石に語っているわけではあるまい。

日本語は省略しても意味が通じるから、省略する。
英語は省略すると意味が通じないので、省略しない。

この英文では、それ以上でもそれ以下でもない。

余談だが、日本語では「あなた好きです」は可、「あなた好きです」はすわりが悪いが意味は変わらない。

一方、「あなた愛してます」は可、「あなた愛しています」では意味が変わる。

「好き」は形容動詞、「愛する」は動詞という違いからくるのだが、それを外国人に説明するのはさぞかし大変だろう。

英語の論理、日本語にも論理

あ~やっぱりいつもの「です・ます」調じゃないと、何かがイマイチ。

それと、批判しておきながらナンですが、『日本語が見えると英語も見える』はいい本ですよ。
ちょっと、「ん・・・そっかなぁ?」と思うところもありますが。

日本人は対象世界を情緒的、感覚的に、あるいは未整理のまま、ファジィに切り取っているであるが、それを分析的、論理的に切り取る訓練をする。それが英語上達の第一歩である。

まぁ、確かに「対象世界を情緒的、感覚的に、あるいは未整理のまま、ファジィに切り取る」のが日本語の論理という面もありますけど。

日本語にも英語にも logic はある。
ただ、日本語より英語のほうが logical なのは確かでしょう。
でもだからといって、日本語が illogical だとは限らない。

西洋で logic と rhetoric が発達したのは法学(jurisprudence)の役割が大きかったでしょうね。

日本人で「法律」というものを意識して暮らしている人は少ないと思う。
車のスピードを出し過ぎていたとき、パトカー(patrol car)の存在が目に入ったときぐらいでしょう。
自分もそんな感じだなぁ。

欧米人はどうなんでしょう。
案外、田舎のおっちゃん含め、普通の人は「法律」など意識しないで暮らしていると思いますが。

"I" についても、そんなに自己主張しないで使っているでしょうね。

もちろん、英語の論理、日本語の論理というのは当然ある。
その違いを意識するのは、英語を勉強しているとき。

 《続く》

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