2010年10月31日 Posted by まさんた
英文の論理とパラグラフの論理 ~英語の論理、日本語の論理(2)
清水幾太郎(著)『論文の書き方』(P.81)より。
私たちは日本語に慣れ切っている。幼い時から、私たちは日本語を聞き、日本語を話し、日本語を書き、日本語で考えてきた。(中略)私たちは日本語に慣れ、日本語というものを意識していない。しかし、その日本語で文章を書くという時は、この日本語への慣れを捨てなければいけない。日本語というものが意識されないのでは駄目である。
ではどうすれば日本語への慣れを捨てることができるのか?
日本語を自分の外部の客体として掴むというチャンスは、普通は、私たちが外国語を勉強する時に訪れるものである。
たくさんの方がこのようなことを言っています。英語 vs 日本語の問題について。
文脈は大切なんですけど・・・
※ この記事はI は自己主張する? ~英語の論理、日本語の論理(1)の続きです。
さて。
前回、引用した荒木博之(著)『日本語が見えると英語も見える』の一節、
・・・「弟と代わりますから」という文を、日本人がなかなか英語に移すことができないのは英語という言語が常に自分と他者、I と you とを確認しながら発語される言語であるからである。英米人が I というときは、他者でも第三者でもなくゆるぎなくその存在価値を主張している自分自身なのであり、you というときは、自分自身の前にあって厳然とその存在を主張している他者なのである。
これを読んだとき、電話でのことか?それなら、こうだろう。
I'll put [get] my brother on the line [on the phone].
これは論理というより、「この表現、英語でなんと言う?」という英会話の問題だ、と。
だから「他者、存在価値、主張」なんて大げさじゃないの?と思いました。
しかし、荒木さんがおっしゃっているのは次のようなこと。
「代わる」などという、日本的、自然展開思考的表現とはきっぱりおさらばをしなければならない。
そういった「中間日本語」は次のごときものになるだろう。1・私はあなたに弟と話をしてもらいましょう。
2・私はあなたに弟と話してほしい。
3・私の考えでは弟はあなたと話したいと思います。
4・多分弟はあなたと話したいでしょう。「なんだこんな日本語ならば中学三年生でも英語にできるじゃないか」、このようにお思いになった読者の方々も多いであろう。
まさにその通りでこんな英作文は中学三年でもできるのである。
それぞれの英訳は次のようなものである。1・I will let you talk to my brother.
2・I want you to talk to my brother.
3・I think my brother wants to talk to you.
4・Perhaps my brother wants to talk to you.
― P.53-54
文脈なしの「弟に代わりますから」では、意味が不明になるのは当然。
しかし、文脈さえあれば、荒木さんのいう1~4のどれか、わかるはず。
英語は文脈がなくても一文だけで意味がわかるかというと、そうでもない。
本を読んでいる時は誤訳することのなさそうな文章でも、文法書の例文として前後から切り離されて出された場合は訳すのに苦しむことが時にある。
(中略)長編小説から一行だけ切り取られた例文では、前後関係は確かめようがなく、自信をもって訳せないこともありうる。
― 渡部昇一(著)『英文法を撫でる』 P.74
このことについては自分も何度か書きました。
※ 拙記事 - 「引用された言葉について」 「切り取られた英文の意味は、決定不可能?」
荒木さんの言う「中間日本語」、たとえば、「私はあなたに弟と話してほしい」。
英作文で出るのは、「弟に代わりますから」ではなく、まさに荒木さんの言う「中間日本語」。
中学のとき、英語の授業で「私はあなたに弟と話してほしい」という(奇妙な)日本語に出会う。
普通は「弟と話して欲しい」でしょう、日本語として自然なのは。
しかし、英語を学ぶには、うるさい日本語(荒木さんの言う「中間日本語」)がいいのだ。少なくても中学、高校では。
英文和訳では「私、あなた、彼、彼女、わたしたち」と必ず人称代名詞を訳す。それでいいと思う。
英語と日本語の違いを意識できる。
ただ、翻訳本でも義理堅く主語や「あなた(君)、彼、彼女」が毎回出てくるのはどうかと思うが。
パラグラフとセンテンス
受験参考書で「パラグラフ・リーディング」と名の付くものが増えてきた。
どれほど効果があるかはわからないが、知っていれば、知っていないよりもいい、という感じか。
普通、1つのパラグラフの構成は次のようになっています。
- Topic sentence(s)
- Body sentence(s)
- Concluding sentense(s)
Topic sentence に何をもってくるか、厳密な決まりはないようですが、この3つが論理的(logical)につながっていることは重要とされます。
アラン・ブルーム(著) 菅野盾樹(訳)『アメリカン・マインドの終焉』(みすず書房)の「序論―われわれの徳」で考えてみます。
大学教授がこれは絶対に確実だと言えることがひとつある。大学に入ってくるほとんどすべての学生は、真理は相対的だと信じていること、あるいはそう信じている、と言うということ。もしこの信念が正しいかどうかには検証の余地がある、という異論がでた場合、学生の反応は予期に違わないものである。すなわち、学生は異論を理解しようとしないだろう。誰かが真理は相対的なりという命題を自明でない、と見なしでもしようものなら、、あたかも 2 + 2 = 4 に疑問を差しはさまれているかのように、学生は驚く。どちらも考えるまでもないことなのだ。
「真理は相対的であると学生は信じて疑わない」が主旨ですが、著者の「真理は相対的ではない」という考えもチラッとうかがえ知れます。
次は、なぜ「真理の相対性」に学生は疑わないか、の説明が続く。
学生の置かれた背景は、アメリカが用意できるかぎり多種多様である。ある者は宗教を信じているし、ある者は無神論者である。ある者は左翼に属し、ある者は右翼である。科学者を志す者、人文学者を志す者、職業人や実業家を志す者もいる。ある者は貧しく、ある者は豊かである。彼らはそれぞれが相対主義を信じ平等に対して忠誠を示すという点でのみ、ひとまとまりをなす。そしてこの二つは道徳的意図においてむすびつく。真理の相対性は理論的な洞察ではなく、道徳的要請なのだ。それは自由な社会の条件であり、少なくとも彼らはそう解している。彼らは皆この枠組みを早くから身につけている。かつて譲渡できない自然権は、伝統的なアメリカにおいて自由社会の基礎であった。この枠組みは自然権の現代における代替物なのである。それが学生にとって道徳的問題であることは、自分の信念を問い糾された場合の、彼らの性格が暴露している。それは不信と憤慨のまざった「あなたは絶対主義者なんですか」というもので、彼らが知っているこれに匹敵する返答には、おなじ調子で発言される「あなたは君主主義者なんですか」とか「あなたはほんとうに妖術を信じているんですか」があるにすぎない。後の返答は憤慨に変わっていく。なぜなら妖術を信じる者は、魔女狩りに手を貸すセーレムの魔女裁判の判事になるかもしれないからだ。彼らが教えられた恐るべき絶対主義の危険は誤りではなく不寛容である。相対主義は寛大(openness)にとって不可欠なのである。寛大は徳であり、五十年以上のあいだ、初等教育をあげて教え込むことに専心してきた唯一の徳である。寛大―そしてそれを、さまざまな真理の主張やさまざまな生活の様式、さまざまな人間たちを前にして、人がとりうる道理のありそうなただ一つの態度に変える相対主義―は現代の偉大な洞察なのである。
さまざまな思想を持った学生たちは、相対主義と平等については、誰もが同じく信じ込んでいる。
しかし、本来なら「真理」とは理論的洞察の結果であるべきなのに、学生たちは道徳としてとらえている。
だから真理の相対性に疑問を呈すると、憤慨する。
理論なら議論、という形になるが、道徳問題なので感情論になってしまうのだ。
その理由は相対主義の反対、絶対主義は「誤り(=悪)」と教えられてきたから。
本来、相対主義には「寛大」が不可欠だが、相対主義という「道徳」に疑問を向けられると、寛大さは消えてしまう。
つまり、絶対主義の特徴、「不寛大」が顔を出し、結果としては相対主義を信じていても、絶対、「相対主義」は正しい、と思い込み、いつのまにか、相対主義が「絶対」なものになり、絶対主義の「不寛大」性をおびる結果となっているのだ。
このへんはブルームの師匠、レオ・シュトラウスの議論に通じる。
相対主義には、外見上の謙虚さと隠された傲慢さとの著しい対照が存している。
― レオ・シュトラウス『古典的政治的合理主義の再生』 P.53
さて、結論。
ほんとうに危険なものとは、心から何かを信じる者である。歴史や文化の研究は、世界中が過去において狂っていたことを教えている。人間はいつでも自分たちが正しいと考えたが、それが戦争、迫害、奴隷、外国人嫌悪(ゼノフォービア)、人種差別、それに迫害主義を生んだのだ。大切な点は、誤りを正すことや実際に正しいことではなく、そもそも自分が正しいと思わないことである。
Topic sentences で「真理は相対的」と学生は認めない、つまり「真理の絶対性」に疑問を持たない、と書かれていた。そして、ブルームはそれに対し批判的なニュアンスを出しながら書いた。
Concluding sentences では、ブルームの主張が書かれている。
ほんとうに危険なものとは、心から何かを信じる者である。
大切な点は、そもそも自分が正しいと思わないことである。
一見、相対主義にも取れるが、Body sentences に書いてあった通り、相対主義を信望する学生たちは、結果としてそれ以外認めない、という絶対主義者となっている、と書いている。
だからこそ、このブルームの相対主義的記述が効果を持つ。
これは論理というより、レトリックの面が強い文章ですね。
論理のゴリ押しではなく、学生の感情を利用して、「ほらね、学生たちは「相対主義、相対主義」って言っているけど、ちょっと誘導尋問するとすぐ激昂する。結局は感情論なんだよ」と。
「英語の論理、日本語の論理」、まだ書きたいこと(エライ人たちが言っていること)について書きたいと思ったのですが、「私はあなたに弟と話してほしい」のような英文の論理について書いたほうが自分にとっても勉強になる、と思いまして。
《英語の論理、日本語の論理、おしまい》


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