「英語教育」批判について(まとめ)

ここ最近、英語教師でもない自分が、「英語教育」批判について思ったことを書いてきました。
傍観者として。
今回は、そのまとめ。

中学生や高校生で、落ちこぼれるというとアレですが、授業についていけなくなるのは、英語と数学が多いでしょう。

ですが、「数学教育批判」のようなことはあまり聞かない。
なぜ「英語教育」ばかり批判されるのか?

突き詰めれば、「中・高で6年も英語を習ったのに、使い物になっていないじゃないか」ということでしょうけど、社会に出て英語を使うようになる人って何割いるの?

1割もいないはず。いや、1割の1割もいないのでは?
それなのに「受験英語」批判が多いのはなぜか?

まさに、天の声?

英会話学校に通う人で、「仕事のため」と答える人は何%ぐらいでしょう?
大多数は、「趣味のため」と答えるような気がします。

とにかく、英語で「会話」が出来るようになりたい人はかなり多い。
※参照:拙記事 英語といえば英会話?英和辞典、そして衰退へ?

そういう風潮の中では、学校の英語の授業は、まるで「言わざる、聞かざる」を目指しているように思える。

そこで、英語の達人たちが、

受験英語は役に立たない!
英文法は不要!
辞書は引くな!

と発言する。

「あなたの努力が足りないのだ」より、「そもそも教え方が悪いのだ」と言われるほうが耳に心地よい。

日本人の大多数が、習った英語を「使い物になっていない」と実感しているので、「そうか、教え方がダメだったのか」と賛同する。

英文法を批判する人を信じる前に、まず確認

國弘正雄さんは、『英語の話しかた』で「英文法一切不要論者」について、こうおっしゃっています。

その人が本当に初等英文法の勉強もしたことがないのかを確認する。
中には文法の授業を人並みに受けながら、いったん上達すると、自分は文法の勉強など少しもしなかったと口にする人がいる。これは最悪です。

参考:拙記事 茂木健一郎流「英語の学習法」への共感の嵐、あれはなんだったのか・・・

どうも英語の達人たちは「猛勉強した過去」を否定したいようでして。

以前、野口悠紀雄さんの、『「超」勉強法』という本が大ベストセラーになった。
Amazon の説明。

基礎から積み重ねていくきまじめな勉強法は見直す必要がある。そして、著者が推奨するのが丸暗記法である。英語であれば、教科書を何回も音読して覚えることが成果を上げる早道になるというのだ。

英文法や英文解釈は、ある意味、英文を分解するものです。

野口さんの「丸暗記」では「分解」が抜けているようです。
そして、國弘さんの言葉。

これは私の推測ですが、入試勉強では分解法的な勉強もかなりなされたのではなかろうか。
ところが、それだけでは、国際的に通用する英語力にはほど遠かった。
そこで丸暗記法を取り入れた。
効果があがるに決まっています。
知的理解はそれなりに完成しているのです。
おまけに頭脳明晰の人が丸暗記という、かなり泥臭いことをやるのです。
ところがいったん飛躍すると、それ以前の知的な勉強を全部否定したくなる。
これはよくあることです。

ではなぜ「以前の知的な勉強を全部否定したくなる」のか?

『英語教育大論争』に掲載されている渡部昇一さんの論文『亡国の「英語教育改革試案」』の一節。

・・・役にも立たない英語教育に「恨み」や「不信」を抱いているのが何も教育ママさんたちだけに限ったことではなく、エリート・コースを歩んできた人たちにも及んでいるというのが日本の社会の一つの特徴である。
秀才よ、エリートよ、と郷党の人々にもてはやされながら出世街道を驀進(ばくしん)して、高級官僚や大企業の重役や大学教授になりながらも、一たび進駐軍の若い将校が目の前に立った時、ひとことも英語が口から出ず、また相手の言うこともちっともわからなかったので、彼らは英語教育を批判をする十分な資格を持つと信じた。
ともかく自分たちは秀才で、すべての学科を用意にこなしてきたのであり、高等数学も英文法も満点だったという自負はある。
それなのに中学以来十年もやったはずの英語が、何一つ役に立たないというのは、自分が悪いわけではなく、英語教育が悪いのだということになるのは当然であろう。
そしてこの種の「恨み(ルサンティマン)」は今日においても続いているのである。

この論文は昭和50年のもの。以来、40年近く経ちますが、まさに、

この種の「恨み(ルサンティマン)」は今日においても続いて

いる。
まして、高等教育に進む人数が昭和50年とは段違いに多い現在、ルサンティマンの勢いは増すばかり。

さらに、近年の生徒の英語力の低下が、批判者たちの追い風になる。

斉田智里(ちさと)らの研究によれば、コミュニケーション重視の学習指導要綱が中学校で全面実施された1993(平成5)年度から「8年間で高校入学時の英語学力が徐々に低下」しているのである。
約12万人の英語能力推定値にもとづくこの調査では、いずれの学力層でも英語力低下が進んでいることがわかった。
8年間の低下は偏差値換算で平均3.8であり、偏差値50だった生徒が46.2にまで落ちたことになる。
― 江利川春雄 『日本人は英語をどう学んできたか』 P.29

近年、英文法や英文解釈(和訳)が授業の表舞台から姿を消した。
それと、学力低下の因果関係は人によって解釈が違うでしょう。

受験英語批判者たちは、そもそも英文法や英文解釈は「害」だと思っているのだから、英文法軽視が学力低下の原因だとは考えない。

まさに、達人たちが「英語教育」に発言するチャンス到来。

そこで登場するのが、「授業は英語で」などの議論。
参照:拙記事 高校の授業、「英語でプレゼンテーション?」

現行の英語教育へのアンチテーゼなのでしょうが、まるでおとぎ話の世界。
高校生でも I, my, me, mine さえ、あやうい生徒も多数いるのに。

そういう生徒は除外した発言なんですかね?

高校はまでは、準備体操

高校卒業までの知識で、英語が「実用」の域まで達することは、まずない。

では、高校までの英語の授業とは?

「英文法」についても、いろいろの考えがあることでしょう。
面倒な文法を教える必要はない、という立場もありましょう。
英語は、使えさえすればよい、という考え方に立てば、理論はどうでもよいので、実際面に役立つ練習に力を入れることになりましょう。
たしかに、理論を知っていたからといって、"聞け"、"しゃべれる" わけではありませんから。
でも、私自身の考え方をのべますと、これは、英語の「技術」面のみを強調しているのではないかと思います。
「生活」面と総合して考えると、中学生、高校生時代が、勝負の時ではないのです。
むしろ、準備運動なのだと思います。
― 加藤恭子 『こんなふうに英語をやったら?』 P.28

準備運動だけで「実用」に耐えうるわけがない。

受験英語(学校英語)批判が多いのは、先生たちの「打たれ弱さ」に原因があると思う。

批判的な英語の達人たちに何を言われても、

自分たちが教えているのは、将来のための準備運動です。

と、自信を持って反論すればいい。

いざ政治問題となると、急に声が高くなる先生たち。
でも肝心の「授業改革」となると、マスコミが取り上げないだけなのか、あまり先生方の声が聞こえない気がする。

教育問題で、一番大切なこと

あとは、先生の「質」ですかね。

ひと口に「英語の先生」といっても、英語の達人レベルの人もいれば、年に一冊も英語の本を読まない人もいるでしょう。
英語以外の知識も豊富な方もいれば、日本語の本さえ読まない方もいるはず。

新津信治・里中哲彦(共著)『たたかう英文法』の一節。

里中 : ・・・もう1つの提案なんですが、高校教師全員にセンター試験を義務づけるっていうのはどうでしょうか。
高校は高等教育をするところなんだから、ある程度の力が必要。
義務教育ではないのだから、正直に言って、8割も取れない人がいるんではないかと思うんですが・・・。

新津 : その提案はいいね。
けど、8割やのうて9割やね。
最低9割取れへんかったら、次の1年間は監視体制下に置く。
でも実現はムリ。
教師が真っ先に反対するもん。

里中 : 「私たち英語教師がセンター試験で9割取れないことがそんなに問題なのでしょうか。体育の先生が100メートルを11秒台で走れなかったら体育の教師を辞めなくてはならないのですか。そもそも、そういう発想自体がますます教育というものを荒廃させるのです」なんて言うんでしょうね、たぶん。

新津 : そうやね。
勘違いしている。
頭の中がカユうなるな、まったく。
体力と知力の蓄積の有り様も、その衰えの速度もわかっていない。
教師が努力しないことで一番迷惑を被るのは生徒ですよ。
何らかのかたちで教師も自分の力を見せんとアカン時期にきていると思う。
文部大臣をやった赤松良子が、ナント、自分の国の英語教師たちを評して「質が低すぎる」と言ったんです。
その気持ちがようわかる。

英語の教師って大変ですね・・・。

あっちで叩かれ、こっちで叩かれ。

ホント、自分は英語の教師でなくて良かった。
まあ、もともと成れなかったでしょうが。

でも、

教師が努力しないことで一番迷惑を被るのは生徒ですよ。

とは至言だと思います。英語の先生に限らず。
教授法の議論も大切ですが、最後に落ち着くところは、これでしょうね。

コメント

from Junpei642

いろいろ意見たくさんありすぎるので
自分のブログに書いてみます。
考えることで見えてくることは多々あるのでね。

英語を教えることやめられるのはもったいないけど、
きちんと教えるのではなく、彼らが英語をやりたいと思えるようなとっかかりを作る。それだけでも意味はあるのかなと思いました。

from まさんた

Junpei さん、こんにちは。

※補足。
(ここ数年、自分は英語を教えています。
といっても、職業として教えているわけではないです。
最初は親戚の子に教えていましたが、いつの間にか五人ぐらいに増えました。途中から来なくなった子もいますが。この夏をもって、教えるのをヤメます。)

自分は体系的に教えているわけではありません。
「ここ、わかんない」と言われたのを、「どれどれ」と。

基本、答えは教えません。
辞書や文法書で調べさせる。

そうすると、その子が「どれぐらい分かっていないのか」が分かります。
だいたい分かっている場合、結構すぐ自分で答えを見つけ出しますね。

英語が得意でない子の場合、たいへん。
何日もかけて教えることになったりします。

たまに自分も分からず、二人で「こうかな?」とかやっていますが。

この夏で教えるのをヤメるのは、夏休みが終わりというのと、ゆったりすべき時間の evening や、weekend がつぶれるので・・・(が本音?)。

Junpei さんの記事、楽しみにしています。

from ぶどう

はじめまして。以前からちょくちょく覗かせてもらってました。

英語教育についての文章であまり語られることはないですが、良い英語教師や授業の実践例について調べてみると面白いのかなと思います。

もちろん、英語教師でもなければ専門家でもないのにそんなものを取り上げる必要はないのかもしれませんが、英語教師の間でどんな先生が評判なのか知っておくのは悪いことではないと思います。

英語教師の卵である私が押すのは静哲人先生と田尻五郎先生です。

こちらが静先生のブログに書かれている英語教育哲学です。

http://sites.google.com/site/zukeshomepage/dash/philosophy

こちらが田尻先生の記事です。

http://www.eigokyoikunews.com/columns/taishukan/2010/03/post_68.html

どうお感じになったでしょうか? さらに詳しく知りたければ「英語授業の心技体」「(英語)授業改革論」を読まれるといいと思います。

※ぶどうさんからの追記。

ってすいません。URL貼った後に気づいたんですが、具体的な英語授業案についてはあのページにはあまり書かれていませんでした。失礼しました。

from まさんた

ぶどうさん、初めまして。

静哲人さんと田尻五郎さんの記事、読んでみました。

静さんの、

> 一般的なプロのユーザーに必要な英語力と、プロの英語教師として備えるべき英語力は、質が異なる。

という言葉には大いに納得させられました。

それにしても静さんの哲学はレベルが高いですね。
まあ、目標は高いほうがいいのでしょうけど。

大修館の『英語教育』懐かしい!
研究社から出してた・・・なんでしたっけ?
むかし、その二冊を購読していました。

田尻さんの文章を読んで、多人数相手に英語を教えることの難しさを再認識しました。
そして、自分にはムリ、と確信。

「具体的な英語授業案」、お時間がありましたら、教えて下さい。

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