福沢諭吉、英学を志す(2) ~十有五にして学に志ざす

前回、福沢諭吉、英学を志す(1) ~幕府時代と父の他界 では、諭吉が幼少のときに他界した父、百助の話を中心に書きました。

今回は、諭吉が漢学を学び始める話を。
ですが、諭吉はこんなことを書いています。

殊(こと)に誰だって本を読むことの好きな子供はいない。私一人本が嫌いということもなかろう、天下の子供みな嫌いだろう。
―『福翁自伝』

福沢諭吉といえば、「学問の人」というイメージがありますが、子供の頃は勉強嫌いだったとは意外。

それに、子供の勉強嫌いは、いつの時代も変わらないようですね。

漢学を学ぶ

江戸時代は、六歳ぐらいから漢文を習うのが普通でしたが、諭吉はだいぶ遅かった。

諭吉いわく、「天下の子供みな嫌いだろう」ですが、当の本人は、特にそうだったようです。

私は甚(はなは)だ嫌いであったから、休んでばかりいて何もしない。手習いもしなければ本も読まない。

そのまま勉強をサボっていたら、今ごろ慶応大学もなく、一万円札には違う人の顔が印刷されていたことでしょう。

しかし、

読書一偏の学者になっていたいという考え...

だった父の遺伝子(?)が、諭吉を学問の道に導きます。

だいぶ、遅ればせながら。

根ッから何にもせずにいたところが、十四か十五になってみると、近所に知っている者はみな本を読んでいるのに、自分独り読まぬというのは外聞が悪いとか恥かしいとか思ったのでしょう。それから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行き始めました。

十四か十五、と書いてありますが、これは数え年。
満年齢でいえば、二歳ほど引き、十二か十三です。

今でいう、中学一年生ぐらいでしょうか。

考えてみれば、そんなに遅くはないですね。
今でも小学生のときは遊んでばかりで、中学に入ってから勉強し始める人は多いでしょう。

思えば、自分が高校受験の勉強を始めたのは、中三の九月、雷とどろく嵐の日でした。

話がそれました。

塾へ行き始めた諭吉少年。

初めの頃はみんなに遅れがちでしたが、やはり、そこは福沢諭吉。

私は天稟(てんぴん)、すこし文才があったのか知らん、よくその意味を解(げ)して朝の素読に教えてくれた人と、昼からになって蒙求(もうぎゅう)などの会読(かいどく ※集まって本を論じ合うこと)をすれば、必ず私がその先生に勝つ。

ここに出る先生は、先生といっても、先輩の書生です。

この頃の塾では、後輩を教えて半人前、という感じでした。

さて、それからの読書歴はスゴイのひと言。

とにかく、あらゆる本を読んでいるんですね。

...殊(こと)に私は左伝が得意で、対外の書生は左伝十五巻の内三、四巻でしまうのを、私は全部通読、およそ十一度(た)び読み返して、面白いところは暗記していた。

左伝(春秋左氏伝)を11回とは!(そしてなぜに中途半端な11回?)

左伝を1回でも読むのは半端じゃなく大変。(当然、自分は挫折)

ちょっと余談。

前回の記事に書きましたが、福沢諭吉は封建制度は「敵(かたき)」だと言っています。

ですが、その「封建」という言葉が最初に使われたのは、諭吉の得意な『左伝』だったりします。

それで一ト通りの漢学者の前座ぐらいにはなっていたが、...

現代なら、この段階で福沢諭吉は漢学の「大学者」でしょう。

江戸時代は、学問イコール漢学でした。

日本人が本格的に英語を学び始めてからまだ120年ぐらいしか経っていませんが、漢学の歴史はその10倍以上。

白刃飛び交う中、度胸と運だけで幕末を乗り切った志士たちも、その漢文の素養の高さは今では考えられないほど。

だからこそ、英語(やその他の欧米語)が日本に入ってきたとき、「銀行、郵便、哲学、野球」など、基本ニ文字で訳語をつくることができた。

今は、「英語は英語のまま理解する」のが王道とされていますが、当時は外国の文化を「翻訳」して日本人に伝えること、が焦眉の急でした。

まさに、漢学なかりせば、洋学なし、です。

最後に。

ウルトラ読書嫌いだった諭吉少年は、後年、こんなことを言っています。

読書は学問の術なり、学問は事をなすの術なり。
―『学問のすヽめ』

《続く》

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