綴りと発音の問題について

口の汚い英国劇作家バーナード・ショー(1856-1950)は fish を ghoti と書けるといっている。
つまり、<gh>は laugh の[f]、<o>は women の[i]、<ti>は nation の [sh]だから。

― 中尾俊夫「英語の歴史」

綴りと発音の乖離はどの言語にもみられますが、英語は特にはげしい。
福田恒存(著)『私の國語教室』(文春文庫 P.309)より引用。
※ 旧漢字に変換できない漢字は新漢字で代用しました。

フレッシュ氏の調べたところによると、英語の發音と表記の關係が大體規則的と認められものは、全體の八十七パーセントで、あとの十三パーセントが不規則だといふことです。

日本語改造計画

英語でも表記と発音のズレを何とかしようという運動がありましたが、今ではもう聞かれません。
無理なのが分かったからでしょう。

一方、日本では敗戦のドサクサに紛れ、「新かなづかい(現代かなづかい)」という言葉の改造が行われました。

しかし、これがかなりデタラメで。

扇 お

氷 こ

普通に発音すれば、「おーぎ」「こーり」でしょう。

ではなぜ、扇は「う」で、氷は「お」なのか?

歴史的かなづかい(旧かなづかい)で、氷は「こり」と表記。

「大きい」も、「おきい」でした。今は、「おきい」。

つまり、旧かなづかいで「」と表記されていたものは、新かなづかいになると「」と表記する、となったわけです。

これに対し、福田恒存は、皮肉まじりにこう書いています。

・・・「現代かなづかい」を正しく書き分けるために歴史的かなづかひの知識を必要とするといふことになります。
― P.20

「現代かなづかい」はもともと、次の目的で始められたようです。

その基本方針ないし原則は、表音主義である。同じ発音はいつも同じかなで書き表し、また、一つのかなはいつも同じ読み方をする、ことばをかえていえば、一音一字、一字一音を原則としている。

※ 当時の文部省国語課の廣田榮太郎が国語審議会の意を受けた文章による。

しかし、残念ながら、今でも小学生低学年は、「わたし、こうえん、いきました」などと間違う。

というより、「一音一字、一字一音を原則」とするのに無理があった。

印された文字は変化しないが、話し言葉での発音は、時代とともに変化していく。
あと100年も経ったら、「現代かなづかい」も実際の発音とかなり乖離していると思う。
そうしたらまた「新々現代かなづかい」でも作るのか?

心配しなくてもだいじょうぶ。

その頃には日本は我国の一部ですから。

という声がどこからか聞こえてくるのが怖いが・・・。

それはともかく。

結局、言葉の改革などしないほうがいい。
「エスペラント語」という人造語に対する、市河三喜の談。

人造語であるということそれ自身弱身であり、規則正しく例外がないということで、そこには感情もなければ想像もない。
意味のニュアンスもなければイディオムもない。
(途中略)エスペラント語の寿命が長いのは ― といっても私と同年位である ― イタリア語を基としたために、Frankenstein のように ugly でないのも一つの理由であろう。
しかしそれは虎の皮を借りて身につけたようなものであって、中身は空虚で心臓もなければ肝臓もない、とても千里を走ることは不可能である。

―「世界語としての英語」 ※ 田中菊雄「英語研究者のために」から孫引き。

日本語は占領軍(と、生活のため、その手先となった日本人の学者)によって、改造された。

しかし、英語に比べれば日本語の不規則性は少ない。

「言う - 言ふ」 「しょう - せう」 「いる - ゐる」といった「ひらがな」だけであり、日本人が古文を読むのに苦労するのは「かなづかい」ではなく文法や今とは違う単語の意味でしょう。

英語は名詞、動詞、形容詞、副詞を問わず、あらゆる単語が発音とスペリングの間にズレがある。

つまり、英語の綴り字と発音の乖離とは質が違う。
福田恒存は痛烈に批判しています。

・・・日本の知識階級は、かなづかひの不規則性には、不勉強のくせにひどく神經質ですが、英語となると、それに氣づかず、ひらすら覚えようとしてゐるし、また実實よく憶えてゐる。
不思議な話です。
要するにその氣もちさへあれば、なんでもないといふことでせう。
フレッシュ氏はかう言つております。
完全に表音的な表記法などといふユートピアを夢みてはいけない。
なるほど、われらの英語の綴字の慘状は世界に冠たるものがあるが、それがわれらの國語なのだ。
― P.309-310

三島由紀夫などは、戦後でも「歴史的かなづかい」を使い続けた。
現在出ている文庫版の後ろに、こう書いてあります。

文字使いについて

新潮文庫の日本文学の文字表記については、原文を尊重するという見地に立ち、次のように方針を定めた。
1・口語体の作品は、旧仮名づかいで書かれているものは新仮名づかいにあらためる。

文庫版の三島の作品は、現代かなづかいに書き換えられています。

原文を尊重するという見地」と、「新仮名づかいにあらためる」は矛盾しないのか?と、ふと思う。

漱石など、戦前の人間の作品ならともかく、三島は「意図的に」歴史的かなづかいで書いたはず。
そういう作品は、文庫版とはいえ、「原文を尊重」し、歴史的かなづかいのままにしたほうがいいと思うが、どうでしょう?

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