2009年7月 6日
苦学、そして若き教師として~『英語名人 河村重治郎』を読む(1)
洋書を日本語の本と同じように(自分は)読めないので、当然、勉強しなくてはなりません。
でも、ヤル気がなくなるときがあります。多い月には31日ほど。
そういうとき、読む本が何冊かあります。
田島伸悟(著)『英語名人 河村重治郎』も、その一冊。
残念なことに今では絶版状態なので、これから何回かにわたり、その中身を紹介していこうと思っています。
※ 以下、引用文はすべてこの本から。
ハイカラさん
福井中学校教諭時代の河村重治郎 ※ 『英語名人 河村重治郎』の扉絵より。
『英語名人 河村重治郎』については、以前、カレッジクラウン英和辞典と英語職人という記事で触れたことがあります。
興味がありましたら、まず、そちらをぜひ。
さて。
河村重治郎(1887~1974)が亡くなったとき、教え子の彫刻家・高田博厚が寄せた追悼文。
私は越前産で、大正七年に福井中学を出たのだが、入学した時は十番以内で、卒業の時は尻から十番以内だった。
・・・・英語はできたというよりも、洋書を読みたかったので勉強した。
英語の先生は五、六人いたが、河村先生というのはずばぬけて出来た。
「西洋人」みたいな顔立ちで「混血(あいのこ)」ではないかと生徒たちは噂していた。
中学の悪童どもは新任の先生が来ると、即座に仇名(あだな)を付け、あそこに少年の本能感覚が優れた要素が現れている、と私は思うが、六十年たった今日でも仇名はよく覚えており、本名の方は思い出せない。
河村先生は「ハイカラさん」というのだったが、他の「樽(たる)の口」とか「まぬけ」とか「もぞ」とか「冠鳩(かんむりばと)」とかいうのに比べると、敬意を表した命名である。
福井中学とは、現在の藤島高校で、さらにたどれば江戸時代、橋本左内が学監を務めた明道館である。
戦前の中学といえば、今でいう、有名国立・私大に入るようなもので、将来のエリートたちが集まるところであった。
高田博厚の追悼文の一部を読めばそのすごさがわかる。
一週一回だったが、先生の家へ行って、その頃私が読んでいたオスカー・ワイルドの獄中録「デ・プロフォンディス」を、先生の前で訳読するのである。
先生はただ「うん、うん」とうなずきながら聴いている。
私はもうダンテやゲェテやニィチェを読んでおり、シェークスピア、トルストイ、ドストイエフスキーなどは英書で読んでいた。
当然、成績がすべての世界。
教室内の席もその順に並べられ、講堂などに集合するときの整列順序も、その成績順そのままだったという。
例外は体操の時間だけで、この時は背の順だったようだ。
成績も悪く、背も小さいとなると、もう救われようがなかった。
教師も生徒も、この成績順配列を当然のように受けとめていた。
すべての生徒が選ばれた者たちであり、能力は等しく持っていて、成績は努力いかんであるという前提があったのだろう。
りっぱな教師とは
それでは重治郎はどんな教師であったのか。
後年、教え子の石田和外が最高裁長官に就任した際、お祝いの会が開かれたが、重治郎は出席を断わったという。
理由を問うと、「わたしは、そんなりっぱな教師じゃありませんでした」と、重治郎は真顔で答えた。
重治郎の性格とは。
入念巧みな授業は多くの生徒を引き付けたであろうが、本来あまり英語の得意でない生徒には怖い存在であったろう。
重治郎には気の短い一面があって、時間をかけて根気よく相手を教え諭すところがなかった。
晩年にはずいぶんと温和になったようだが、それでも相手がぐずぐずとわからぬことを言い続けたり、曖昧なことを繰り返すと、眉のあたりに皺を寄せてぴしゃりと決めつけるところがあった。
若いころの厳しさが思いやられる。
自身が教師である、著者田島さんの次の記述は興味深い。
上級学校へ進学した人たちは「上の学校へ行っても、おかげで英語で困ることはなかった」と言う。
重治郎に教わったことを幸運としている。
生徒が良かっただけのことだ、と重治郎は言うだろう。
その通りだと思う。
五十人のうち四十人は重治郎から多くのものを吸収することができたであろう。
しかしあとの十人はどうだ。
教師の評価は一握りの優秀な生徒たちによって決められる。
英語のできない生徒たちは、教師を評価する立場にない。
できないのは自分がだめなのだと、かなしいほどに納得している。
最も教師の手を必要とする生徒たちである。
これらの生徒に、自分は何をしてやったのかという思いが、晩年の重治郎に痛かったのではないか。
過去を正確に思い出せば、自分を立派な教師などと言える人はいないだろう。
これは重治郎の経歴に関係しているのではないだろうか。
重治郎は大学を出ていない。中学中退、今で言う、高校中退である。
そして、次々と検定試験をパスし、英語教師となった。
今と違い、英語の教材が豊富でない時代に、独学で英語の達人になれたのは、重治郎がクリスチャンであったことも関係するだろう。
福井での重治郎には、教師とは別の、もう一つの生活があった。
重治郎の父も二人の弟も、キリスト教には無縁であったし、生涯無縁のままで終わっている。
キリスト教の、教会人としての生活である。
重治郎がいつ、いかなる動機で入信したのかは不明である。
福井中学の前の聖学院中学で教えていたころは、すでに洗礼を受けていただろう。
妻たみの次兄は牧師である。
二人の結び付きは教会を通しての出会いだったろうと思われる。
当時、キリスト教会は西洋文明への入り口でもあったから、純粋な信仰そのものに加えて、進取の気質のある青年にとっては心ひかれるものがあったのであろう。
重治郎自身、キリスト教からは距離を置くようになっていく。
重治郎は青年期にキリスト教に触れ、かなり熱心に礼拝に出席し、宣教活動などにも参加した。
しかしその後、生活環境の変化とともに教会から足も遠ざかり、形の上ではほとんどキリスト教と無縁の生活に入っていった。
死期を迎えても、淡々としていたという。
重治郎は、死に対して何の不安も示さなかった。
聖書を読むことも、牧師を招(よ)ぶこともなかった。
八十六年の歳月を自分なりに精一杯生き抜いたことへの満足があったようだ。
原動力である、「熱」
教師としての重治郎に話を戻せば、いらだちがあったのではないのか。
自分は苦学の味を知りすぎるほど知っている。
旧制中学に入れるぐらいの少年なら、能力は十分にある。
英語が出来ないというのは、努力しないからだ、と。
そういう思いは、のちに研究社『新英和大辞典』の編集主幹になったときの話にも表れている。
大辞典ともなると、大人数で分担し、執筆することになる。
校正が進むにつれ、誤りが発見される。
それは重治郎をして、しばしば苛立たせ、呆然とするほどの量であった。
そして、重治郎が出版社の人と交わしていた葉書にはこう書かれたものがあったという。
要するにすべてがこういう手の抜き方というか、今一息の手前で努力がなげうたれてしまう所にすべての問題の禍根があります。
能力がないというのではない。
只仕事を推進する根本的原動力である「熱」が不足しているのだと思います。
辞書作りへ
「わたしは、そんなりっぱな教師じゃありませんでした」
重治郎はいつから自分をそう思うようになったのであろうか。
福井中学を辞した37歳にはもうそう思っていたかもしれない。
重治郎は48歳のとき、当時としては画期的な辞書となった『学生英和辞典』を出版する(昭和10年)。
それまでは初学者でも分厚い辞書を使うのが普通であった。
『学生英和辞典』は、初学者にしぼった辞書で、語数も一万に満たない。
今では中学生向けの辞書はたくさんあるが、そのさきがけであった。
これを指定辞書とする中学校が全国で相次ぎ、出版後三年間で百版を数えた。
『学生英和辞典』の序文にはこう書かれている。
・・・然るにこの場合生徒が自習の手引きとして与えられる辞書は何であるかといふに、多くの場合浩瀚なる大辞書であるか、又は相当学力ある者のみが十分利用し得るやうに凝縮されたポケット辞書である。
極めて初歩の文法知識すら覚束ない初学者が簡易な語句の意味を求める目的に対してこれ等の辞書を持たしめることは、丁度鉛筆を削る為に正宗の銘刀を与え又は外科医師のメスを用ひしめるにも等しく不穏当なことと言ふべきである。
英語を学び始めの中学を辞し10年、
「わたしは、そんなりっぱな教師じゃありませんでした」
という思いが、生徒にやさしい辞書を作る気になったのかもしれない。
重治郎の辞書作りへの「熱」については、次の機会に。


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