2008年12月 7日 Posted by まさんた
酔人独語
常在戦場。
長岡藩、つまり、江戸時代に、現在の新潟県の長岡市あたりにあった藩ですが、この藩出身の人はみな、この四字「常在戦場」を好んでいました。
常に戦場に在り。
太平洋戦争の連合艦隊司令官、山本五十六(いそろく)も長岡藩出身で、「何か書いてくれ」と頼まれると、いつも「常在戦場」と書いていたそうです。
ちなみに五十六という名前は、父の貞吉が56歳の時に生まれた子だから、「五十六」。
五十六の長兄、譲(ゆずる)とは32歳も年が離れていました。
それにしても。
山本五十六ほど、常に戦場にいなかった司令官はいない。
常に、戦地から遠く離れ、戦艦の中に引きこもって賭け事ばかりしていました。愛人をそばに置いて。
衝撃を受けたひと言
誰でもそうでしょうが、自分も子供のころ父とお風呂に入っていました。
3年生ぐらいだったと思いますが、父から衝撃的な言葉を聞きました。
「日本は戦争に負けて良くなった」と。
それがどれぐらい衝撃的だったかというと、父はその他にもいろいろな話をしてくれたと思うんですが、「そのひと言」以外、まったく覚えていないんです。
覚えているのは、「兄弟舟」など、演歌を歌う父の姿のみ。
なぜ「そのひと言」が衝撃的だったかというと、子供心に、「戦争に勝って良くなった」なら理解できたと思いますが、「負けて良くなった」は「???」と。
子供ながらも多少はあったであろう思考回路では、理解不可能でした。
それ以来、ずっと疑問を持ち続けていました。
なぜ日本は戦争をし、なぜ負けたのか...。
少しずつですが、わかりかけてきたので、終戦記念日(八月十五日)にでも記事を書こうかと思っていました。
ですが...。
戦争について
七月の終わり頃から書き始めたものの、かなり長い記事になってしまって。
はて? どこを削ろうか...と悩んでいたところ、いつの間にか八月十五日は過ぎてしまいました。
余談ですが、本当の終戦記念日は、「ミズーリ号」での降伏文書に日本が署名した、九月二日だと自分は思います。
※実際、外国の本では日本の敗戦をは九月二日としているものも多いです。
そんなわけで記事をアップし損ねたものの、日露戦争・日清戦争などの本を読み始め、今は「開国」、さらにさかのぼって、なぜ「尊王思想」が出てきたのか、を考えているところです。
ところで。
日本はなぜペリーの要求を受け入れ、開国せざるを得なったのか?
となりの人に聞いたら、
戦っても勝てないから。
という、30点な答えが返ってきました。
「軍艦は造らせない」というのが江戸幕府の政策。
一応、江戸湾には砲台場はありましたが、その射程距離は、ほとんどが1キロ以下。
いっぽう、欧米の軍艦に積んである大砲の射程距離は3キロ以上。
これでペリーの勝ち決定。
日本には軍艦はありませんから、2キロ離れた海上で、なんの心配もなく、ドンドンと江戸湾の砲台をすべて破壊。
ああ...日本には、もはや近寄る軍艦を攻撃する手段なし。
築地からだったら、江戸城まで2キロぐらいでしょう。
ペリー艦隊には3キロの射程距離を持つ大砲が。
というわけで、勝敗は火を見るより明らか。
大砲といえば。
湾岸に備え付けの大砲ではなく、持ち運ぶ大砲もありました。
まあ、その威力といえば、鉄の陣笠をかぶっていれば、当っても気絶するぐらい、命に支障なし、というレベル。
それを引っ張るのは、牛。
これは50年後の、ソ連との武力衝突、ノモンハン事件(1939年)の頃になっても同じ。
引っ張るのが牛から馬に代わっただけ。
日本は第一次世界大戦に(実質)参戦しなかったので、近代兵器にだいぶ立ち遅れました。
とくに戦車が。
ノモンハンの戦いで、ソ連の戦車は敵知らず。
日本の戦車といったら、突然動かなくなったり...。
こうなったら、やけっぱち!
と、火炎瓶を投げつけたらソ連の戦車が燃え出したんです。
どんな機械でもそうですが、一番たいへんなのは、どう放熱するか。
戦闘が長引くと、装甲がそうとうな熱を持つ。
だから火に弱い。
余談ですが。
このノモンハン事件で日本軍、ソ連軍の両軍ともに、2万人近い死傷者が出ました。
これだけの死傷者が出ても、その後、戦争にはなりませんでした。
戦争はこういうものなんですね。
双方が「戦争をしたくない」、と思えば、どんな大規模な武力衝突があっても戦争にはならない。
片方が「なにがなんでも戦争をする」と決めれば、相手が戦争をしたくなくても戦争になる。
たとえば。
大戦中、イギリスはドイツに押されっぱなし。
イギリスの敗戦を恐れるアメリカ大統領、ローズベルトはドイツ近海に巡洋艦(※ 戦艦のミニ版)を走らしました。
ドイツ軍が撃ってきたら、「ドイツが攻撃してきた!参戦だ!」という思惑で。
でも、あの、あのヒトラーでさえ、アメリカには手を出すなと命令。
その当時はアメリカとは戦いたくなかったから。
あの、あのヒトラーでさえ、そうなんです。
余談ですが、ヒトラーといえば、条約破りの常習犯。
それが、不幸なことに、なぜか三国同盟にだけは忠実でしたね。
あれでドイツと日本は仲間、ってことになってしまいました。
三国同盟は防衛同盟、つまり、同盟に参加中の一国が攻撃された場合のみ、発動するんです。
攻守同盟ではないので、攻撃した場合は発動されません。
ヒトラーは三日間も考えた末、アメリカに宣戦布告。
余計なことを。
それはともかく。
大砲の話に戻りますが、上で、
引っ張るのが牛から馬に代わっただけ。
と書きましたが、太平洋戦争末期になると、馬でなく、人が引っ張るようになりました。
ぬかるんだジャングルの中を。
何百キロも。
空腹のまま。
佐久間象山の門下生
話を開国のあたりに。
佐久間象山という、蘭学や砲学を教えていた人がいまして。
その門下生がスゴイ。
主な人物をあげると、
1850年、勝海舟が入門。
1851年、山本虎三朗や吉田松陰。
1852年、河井継之助。
1853年、坂本竜馬。
1854年、橋本左内。
まあ、それぞれ受けた影響度は違いますが。
勝海舟は、佐久間象山をあまり好きではなかったようですが、妹を象山に嫁がせています。
勝海舟の孤軍奮闘
勝海舟に関する本を読むと、いつも思うのは、その孤軍奮闘ぶりのスゴさ。
「徳川家お家つぶし」と「慶喜切腹」を求める官軍。
それを阻止しようとする勝海舟。
あろうことか、そんな勝海舟を嫌う徳川慶喜。
旗本連中にも「官軍(薩長)のスパイ」と疑われ...。
まあ、勝海舟の活躍はドラマや小説で有名でしょうから書きませんが、なぜそんな状況の中、あれほど孤軍奮闘できたのでしょうか?
麟太郎、アソコを狂犬に噛まれる
勝の親戚に、大奥の呉服の間を勤めている人がいました。
麟太郎(※ 海舟の幼名)7歳のとき、一緒に江戸城へ。
いたずらっ子の麟太郎。
なんと、時の将軍、徳川家斉(いえなり)の御座所のところへトコトコ。
お叱りをうけると思いきや...。
そんなこんなで、家斉の孫、初之丞(※ のちの一橋慶昌)の遊び相手として江戸城に勤めることに。
が、9歳になった麟太郎、アソコを狂犬にガブッ!
麟太郎の父、勝左衛門太郎惟寅(さえもんたろうこれとら)、通称、小吉。
手術中、傷口を縫う医者の手が震えている。
それを見た小吉、いきなり太刀を麟太郎の胸に。
そして一喝。
「痛いといって泣いたりわめいたりすれば斬ってしまうぞ」
麟太郎は二ヶ月ぐらい生死をさまよったそうです。
そのあいだ、小吉は水をかぶり神社で祈ること毎晩。
寝るときも、麟太郎を抱きしめ「しっかりしろ、しっかりしろ」と言い続けたそうです。
小吉という人物はかなりの変人で、『夢酔独言』という書の中で、
おれほどの馬鹿な者はあんまり有るまいとおもふ
と書いているぐらい。
一橋慶昌は十四歳で早世しましたが、順調にいけば一橋家の重臣となれた息子、麟太郎に「失敗者」としての小吉は、愛情を越えた「何か」を感じていた。
それが、幕末の動乱の中、勝海舟を支えた、と江藤淳は『海舟余波』で書いています。
彼(小吉)がこのとき、麟太郎の生命の危機を、ほとんど自分の生命の危機と同一視していたことは、疑う余地がない。それは「血」のつながりというものであり、息子の存在に託されていた自己の生命の永遠の持続が、突然断ち切られることに対する恐怖である。しかし、ここにはまた、それ以上の危機も同時に作用していた。それはおそらく小吉自身のアイデンティティの危機である。
...一連の体験のなかで立証された父の熾烈(しれつ)な愛情は、彼の記憶に、自分に内在する不可侵のポジティブ・アイデンティティに対する確信を植えつけたものと考えられる。
ちなみに父の小吉も、タマをひとつ、つぶした経験あり。
崖から落ちて。
麟太郎のアソコは無事に完治したようです。
現在でも、勝さんの子孫がいらっしゃいます。
余談ですが。
もし、
勝海舟 - 坂本竜馬 - 陸奥宗光 - 原敬・西園寺公望
という、薩長に対抗するため、民主主義を日本に根づかせようと尽力した人脈が政府の中枢にいれば、日本のその後の針路はだいぶ変わったでしょう。
残念なことに、坂本と原は暗殺され、陸奥も53歳でこの世を去ってしまいました。
陸奥が死んだとき、西園寺公の落胆ぶりは、見ていられないほどだったそうです。
その西園寺も、開戦の約一年前、妾たちに囲まれながら、「これでお前らも畳の上で死ねなくなった」と言って、あの世にいきました。
第二次世界大戦について
まず、先の大戦について語る前に、自分の信条を。
自分は保守派です。
しかし、日本の保守派の学者・評論家・作家はたいてい、こう言います。
あの戦争はアメリカの陰謀だ。日本は英米に「真綿で首を絞められるよう」に、じわじわと追い込まれ、自存自衛のために戦った、と。
しかし、保守で一番大切なことは、先祖から受け継いだ祖国を、さらなる「繁栄・安全」を築き上げ、より良い状態で続く世代に受け渡すことだと思います。
しかし、先の大戦の結果は、300万にも及ぶ自国民の命を奪い、領土も奪われ、長い日本の歴史の中で、初めての主権の損失で終わりました。
保守派がすべきことは、戦場で散った兵士たちへの鎮魂と、なぜあんな作戦(といえるほどで立派なものではないが)を立てたのか、を研究し、非難することにある、と思います。
保守派の人でよく「アメリカが悪い」理由の根拠としてあげる、有名な2つのことがあります。
ハル・ノートと、マッカーサーの上院での演説、「日本の戦争は自衛のためだった」。
ハル・ノートは、日本に対し、満州・中国大陸や太平洋からすべて手を引け、撤兵せよ、という、ある意味、最後通帳。
しかし、このハル・ノートが駐米日本大使に手渡された時間よりも、約24時間も前に、南雲忠一(なぐも ちゅういち)少将率いる機動部隊は択捉の単冠湾から真珠湾めざして出撃しています。
そして、マッカーサーの「日本の戦争は自衛のためだった」というのも、朝鮮戦争を経験し、ソ連の脅威がわかったからであり、日本がアメリカと戦争したことまで「自衛」とは言っていません。
余談ですが、日本はソ連とは戦争していません。
ソ連は、1945年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄し、怒涛のごとく満州に攻め込んできました。
ということは、ソ連とは交戦中であるので武装解除しなくてもよいのに、なぜか8月19日に武装解除している。かなり、謎。
暴行されたり殺されたりした婦女子、約20万人。
シベリアへ抑留された日本兵、100万人、うち約半数が死亡。
そして、樺太、北方領土を失いました。
このソ連の満州侵入について、戦後はこう教えられていたそうです。
稲垣武(著)『悪魔祓いの戦後史』からの引用。
太字は管理人。
『あかるい社会』という教科書の一節。
...ソヴィエトは、八月八日に、日本に戦争をするということを宣言し、ソ満国境をこえて、満州国に攻めこみました。満州にいた日本の関東軍は、それまで、日本でいちばん強い軍隊だといわれていましたが、ソヴィエトの軍隊に、ひとたまりもなく、うちやぶられてしまいました。
日本教職組合(日教組)は共産党系の全日本教育労働連合と、社会党系の教育組合全国連盟が1947年に統一してできた組織。
キリストの降臨を待つがごとく、ソ連の日本進駐を今か今かと待ち望む、心の祖国はソ連だった学者・先生たちにとって、日本の敗北がうれしくてたまらなかったんでしょう。
北進か何進か
江戸時代から、日本の防衛上の戦略は、「北進」つまり、ロシア(ソ連)の南下をどう阻止するかでした。
しかし、日本は伝統的な「北進」をやめ、「南進」を取りました。
それは、中国、英米との戦争を意味します。
なぜ方針を変えたのか?
少し考えてみます。
日本滅亡の道、南進
日本の領土を奪い取れる軍事力、そして、それを実行に移す意思の両方を持つ国はロシア(ソ連)しかありませんでした。
これは、当時の小学生だってわかっていたでしょう。
しかし、その国策を180度変えた男がいました。
それが、近衛文麿(このえ ふみまろ)。
五摂家筆頭・近衛家という名門中の名門出身の政治家。
近衛文麿については、「優柔不断」「不戦派だったが部下を抑えられなかった」などといわれ続けてきました(今もそう評されています)。
しかし、近衛文麿は、優柔不断どころではあるません。
御前会議(※ 天皇も御臨席される最高会議)を平然と覆したりするほどの人物です。
近衛が泥沼の日中戦争(南進)という、日本を破滅の道へと導いた発端は、盧溝橋(ろこうきょう)事件(1937年7月7日)という、死者も負傷者もゼロの、ささいな日中の武力衝突でした。
小さな武力衝突なんて、しょっちゅうあること。
それを亡国の道へと日本を走らせた近衛文麿の対応は、こう。
現地から、「停戦合意の可能性大」との電報が届く(7月11日午後3時40分)。
盧溝橋事件の四日後、現地で正式に停戦が合意された(7月11日午後9時)。
「停戦合意の可能性大」との電報を受け取りながら、政界・財界・報道を官邸に集め、「北支派兵声明」、つまり、3個師団の派遣を発表した。
※ 師団とは、軍隊の編成の基本単位。
1個師団は通常、1万人から1万5千人。戦争末期になると、人数めちゃくちゃ。
現地で停戦が合意されたのを知りながら、北支派兵を決めたのは、戦争拡大を目的としたものとしか考えられません。
いや、間違いなくそうです。
盧溝橋事件から半年後、1938年1月11の御前会議で「支那事変処理根本方針」を定め、日中和平を目指すことになりました。
しかし、近衛は5日後の1月16日、「国民政府を対手(あいて)にせず」と声明を出す。
国民政府は世界が認めた中国の正統政府。
それに対し、「対手(あいて)とせず」とは、一切交渉しない、と宣言したのと同じ。
つまり、日中戦争をどこまでも続けるぞ、という路線が敷かれたことになります。
近衛は普段は「不拡大・不拡大」と言っていました。
しかし、いざ、その「不拡大 = 日中和平」が成立しそうになると、突如として、このようなことを発表する。
ちなみに、日中戦争拡大派の中に、海軍大臣・米内光政がいます。
米内光政というと、「良識派」などと言われています。
ポツダム宣言の受諾を支持したから、と。
ウィキペディアの米内光政でも「海軍内の良識派」と書かれています。
しかし、超「開戦派」であったし、敗戦が確実となり、敗戦後の日本を担うべき若者の命を次々と無駄に奪う「特攻」を推進したのは米内その人。
そんな人が「良識派」とは...。
話を戻しますが、日中戦争拡大には、むしろ陸軍大臣・杉山元のほうが消極的でした。
「あれは陸軍が始めた戦争だ」とはよく聞かれる話ですが、実は日中戦争が泥沼化した責任は海軍にも大いにある。
余談ですが、中国との戦争を当時は「北支事変」、戦争が拡大してからは「支那事変」と呼んでいましたが、それはアメリカに「中立法」というのがあって、交戦国には武器を売ってはいけないことになっていたから。
まだ恐慌から抜け出せないアメリカにとって、日本は貿易のお得意さまでした(※ 日本の輸入の8割がアメリカから)。
どう考えても中国とは戦争すべきではなかった。
しかし、収拾がつかなくなった理由はいくつかあります。
まず、日本の将校たちの勲章欲しさ。
なんせ、日本の敗北がみえてきた1943年になっても、陸軍は「大陸打通作戦」という、総兵力40万で中国大陸1500キロを「打通」しようとしました。
無意味、というか有害なこの作戦、中国人に恨まれるのは当然です。
戦争に突入していった頃の日本には、「統制」という言葉がなくなっていました。
軍を動かす場合、天皇の裁可が必要になります。
それを無視して軍を動かせば、とうぜん銃殺。
でも、それもお互いにかばいあい、有名無実に。
トップが勝手に兵を動かすから部下たちもマネするようになる。
トップで勝手に兵を動かした主な人物をあげると、
東条英機・石原莞爾・辻政信・阿南惟幾(あなみ これちか)・富永恭次など、数えていったら、数百・数千のリストが出来そう。
そして、最初は負けっぱなしな中国軍でしたが、この頃になると、中国人全体が反日・侮日の一色になっています。
主にアメリカから物資が運ばれ、戦力に自信がついたのでしょう。
自国には武器生産工場はないが、他国が武器を援助してくれる勢力が一番強い。
このことは、朝鮮戦争・ベトナム戦争・イラク戦争・アフガン問題をみれば、一目瞭然です。
やはり日本は満州からは一歩も出ず、対ソ戦に備えるのが最善の策でした。
国民政府主席の蒋介石は、日本に留学したこともあり、日本帝国陸軍でも研鑽を磨いた人物です。
もし、日本が大陸で暴れまわらなければ、蒋介石が紆余曲折はあれど、中国を一つにまとめ、二十年か三十年もすれば、中国も立派な近代国家になったでしょう。
さて。
そんな蒋介石を「対手(あいて)とせず」と近衛文麿が決めてからの日本の惨状。
1937年以降、日本の経済はボロボロになっていきます。
たとえば、盧溝橋事件が起きた1937年から個人消費指数は下がりつづけ、真珠湾の年の1941年には20パーセントも落ち込んでいます。
配給制度が始まったのもこの頃。
(当時、世界のGNPの半分を占めていた)アメリカとの戦争に突入したとき、日本の経済はボロボロでした。
経済力の単純な比較は難しいですが、おそらく、日本の経済力は、真珠湾の年にはアメリカの50分の1以下だったでしょう。
アメリカはドイツとも戦わなければなりませんでしたから、戦力を2つに分けなければなりませんでしたが、それでも25分の1以下です。
対米戦への道
中国との戦争で、日本の体力がどんどんすり減らしていきながら、中国より何百倍も国力のあるアメリカとの戦争に突入することになります。
その過程を、追っていきます。
近衛文麿が首相時代に開かれた「御前会議」を順にみると、
1941年7月2日。「対英米戦ヲ辞セズ」
1941年9月2日。「(※ 外交交渉がうまくいかなければ)対米(英蘭)開戦ヲ決意ス」
しかし、外交交渉など、うまくいくわけがなかった。
その最大の原因は、7月28日の、フランス領南インドシナへ日本軍進駐(南部仏印進駐)。
フランス領インドシナ、は現在のベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた地域ですが、サイゴン湾を日本が占領したのは実質、日本が英米に宣戦布告したのと同じ意味を持ちます。
サイゴン湾が日本軍の手に落ちれば、香港などのイギリスの植民地は本国から遮断されたも同じ。
しかも、サイゴン湾はアメリカの植民地、フィリピンのすぐ西に位置します。
日本は先に海南島(※ フィリピンの北西)を占領していた。
フィリピンの東には日本の委任統治領となっているカロリン諸島がある。
フィリピンの北には日本の植民地、台湾。
つまり、西にあるサイゴン湾が日本軍に占領されると、アメリカの植民地、フィリピンを完全に包囲したことになります。
この時点で、イギリスやアメリカが日本に宣戦布告してもおかしくない。
戦争になる原因は、交戦だけではありません。
「敵対行為」とみなされる、すべての行為が戦争になる理由になります。
ちなみに、この「南部仏印進駐」は、7月2日の御前会議で決まっていました。
ですから、同日の御前会議での「対英米戦ヲ辞セズ」は、実質、9月2日のそれ、「対米(英蘭)開戦ヲ決意ス」と同じです。
いや、サイゴン入城は、「決意ス」ではなく、事実上、「開戦ス」ということ。
その後、英米は日本資産を凍結します(これは日本にとって、十分な開戦理由になります)。
そして、いわゆるABCD包囲網で日本は石油が入手できなくなる。
それまでは、アメリカは日本に石油を売っていました(8割はアメリカに依存)。
そして、日本は石油を求め、日米開戦へと...。
と、なぜそんなことになったのでしょうか?
石油が欲しかったら、オランダの植民地、スマトラ島でも攻めればよかった。
スマトラのパンレバンは東南アジア屈指の産油地。
こっちは石油が欲しいから、「オランダさん、今から石油をいただきに参ります。ただし、土地はいりません。石油の採掘権だけ、お借りします」と。
そうしても、オランダとは戦争にはならない。
なんせ、オランダには海軍がありませんでしたから(海軍ぽいのは、あったが)。
オランダはイギリスに守ってもらって植民地を維持していたんです。
なぜイギリスがオランダを守ったかというと、地図を見れば一目瞭然。
過去、イギリスを攻めるなら、かならずオランダを経由なんです。
そういう、隣国の平和と安全は、イギリスの防衛には必須。
ですから、イギリスはちょっかいを出してきたかも。
なんせ、イギリスの首相は、あの、戦争大好きなチャーチルですから。
そうなったら、イギリスとだけ戦争すればいい。
史実(1941年12月10日のマレー沖海戦)通り、イギリスが誇る戦艦、プリンス・オブウェールズとレパルスを沈める。
そこで、日本は講和条件を出す。
条件は、イギリスの植民地も、お金も要りません。
ただ、スマトラの石油採掘権だけください、と。
日米開戦へ
おそらく、大多数の日本人は太平洋戦争の一番の責任者は東条英機・元首相だと思っているでしょう。
そこで、東条という人について。
東条に接した人の日記を読むと、「あんないい人いない」と書いてあります。
しかし、いざ政治や軍事になると、コロコロと意見を変えるんです。
陸軍大臣のときは、開戦派が多数だった陸軍の意向を汲み、「開戦だ!開戦だ!」と主張する。
ですが、いざ首相になると「慎重派」に一転。
...東条大将(首相就任と同時に昇進)は、きまじめな性格だった。なによりもまず、職務、立場に忠実であることを心がけた。だから陸相時代は、陸軍の立場にたって、その任務にはげんだが、いまや首相である。しかも陸相のほかに内相も兼ねた。まず、国家の経綸という立場ですべてを考えねばならない。
※ 児島 襄『太平洋戦争』より
「慎重に」という天皇の意向を伝えられると、「陛下は不戦! 陛下は不戦!」と、誰にでも聞こえるように叫びながら歩いたという。
その後、東条はアメリカとの交渉で問題を解決しようとしたが、だめだった。
アメリカ政府はもう、日本が暴発するのを待っていた。
ソ連のスパイ網
戦後の1950年代、アメリカ政界は、赤狩り(マッカーシズム)で揺れていた。
産経新聞社刊『ルーズベルト秘録』を開くと、本文の2ページ目に、ルーズベルト大統領時代の米連邦政府内のソ連スパイ網が載っています。
何十人も。
その、主たる人物は、ハリー・デクスター・ホワイト(Harry Dexter White)。
上に書いた「ハル・ノート」を書いた張本人で、IMF(国際通貨基金)の初代理事を務めた人物です。
ホワイトは、ソ連のスパイの容疑で喚問され、三日後に自殺。
第二次世界大戦が勃発した時代のソ連のスパイ活動とはどういうものか、『ルーズベルト秘録』から引用します。
四五年九月、FBIに駆け込むまでスパイ網の要(かなめ)にいたエリザベス・ベントレーは五一年八月、米上院国内安全保障小委員会でホワイトら政府内の情報員の活動について証言している。
ベントレーはまず「工作員の役割は秘密文章を持ち出すことのほかに、米国の政策にこちらの臨むような影響力を与えることだった」とし、その例を聞かれると、「影響を行使できたのはホワイトとロークリン・カリー(ルーズベルト大統領の中国問題特別補佐官)ぐらい」であり、「ホワイトはこちらの支持でモーゲンソー案んを強く推進した」と内幕を述べ、委員会を驚かせている。
引用中の「モーゲンソー案」というのは、
ドイツの工業を根こそぎ取り払い農業と牧畜だけの国に造り返る
という、常軌を逸したもので、ルーズベルト(ローズベルト)大統領も賛成した案件です。
余談ですが、「世界人権宣言」を起草したエレノア・ローズベルトは、フランクリン・ローズベルトの妻。
「世界人権宣言」、読めばわかると思いますが、その思想は、どこかの国の「進歩的」な方々が口々におしゃるのと、まるっきり同じ。
ですが、エレノアは、自国内の黒人たちには公民権を与えようとはしませんでした。
※ アメリカの黒人に公民権が与えられたのは、戦後20近く経った1964年。
こういう人権派の方々はみんな同じですね。
環境保護!というビラを構内で配りまくり、ちらばっているのに片付けようともしない。
世界の貧しい人びとを救おう!と叫んでいる隣の公園には、貧しくてそこで暮らしている人がたくさんいたり。
日本国内にも学校に行けない子供たちがたくさんいるのに、そっちは救おうとしないで、海外の貧しい子供たちのために学校を建てよう、だの。
もちろん、世界の貧しい人たちを救うのも重要ですが、まずは自国から、ではないでしょうか?
「世界」とつけると、何か格が上がるのでしょうかね。
それはともかく。
政府中枢でこれだけソ連のスパイが暗躍、というか、堂々と活動できたのは、大統領自身が、かなりの親ソ連だったから。
それについては書くのはやめときます。長くなるので。もう十分長いですが。
一方の日本。
日本政府の内部にも、かなりの数のソ連のスパイが(堂々と)潜入していました。
「ゾルゲ事件」というのは有名なので、みなさんもお知りでしょう。
もちろん、ソ連のスパイだった人物をブレーンとしてたくさん使っていたのは、近衛文麿首相。
近衛文麿 → 田中信次郎・尾崎秀実(ほつみ)※両者とも朝日新聞記者 → ゾルゲ
というラインで日本の決定はソ連に伝わっていました。
近衛文麿自身、『貧乏物語』などで有名なマルキストであり、革命扇動家であった河上肇(はじめ)に学ぶため、わざわざ東京帝大を中退し、京都帝大に入りなおしています。
まあ、大正・昭和初期に教育を受けたエリートの中で、マルクスに染まっていない人を探すのは、ゴールデンウィーク中のディズニーランドで迷子を捜すぐらい大変ですが。
盧溝橋事件(1937年)以降になるとマルクスの本の出版は難しくなりましたが、それまでは堂々と書店に並んでました。新思想の一番手として。
それはともかく。
中川八洋(著)『近衛文麿とルーズベルト』では、近衛自信がソ連のスパイであった、と書かれています。
確かに結果だけ見れば、上に書いたように、近衛の行動はすべてソ連に有利になるよう動いています。
もうひとつ挙げれば、戦争末期、「ソ連の仲介」による和平をさぐっていた日本政府は、近衛を特使として派遣しようとしました。
近衛の交渉案は、樺太を含む全千島列島、沖縄、小笠原諸島を「ソ連に差し上げる」、そして、満州にいる日本兵を「労力」として提供する、というもの。
つまり、日本全部をぐるっとソ連が取り囲む、ということですから、意味するところは「日本を全部差し上げます」ということ。
その頃はローズベルトが死に、反ソ派も発言できるようになっていましたから、アメリカ政府は反ソに傾いていました。
マッカーサーなんて、ソ連軍が北海道に軍を進めたら攻撃する、と言っていたほど。
当然、そういうアメリカの意思を知っているスターリンは近衛文麿との会談を拒否しました。
話を戻します。
御前会議での決定、7月2日の「対英米戦ヲ辞セズ」と南部仏印進駐決定(※実質、英米への宣戦布告)もソ連に伝わりました。
スターリンはさぞ狂喜したことでしょう。
日本の南進が決定したので、日本軍を警戒し、極東に張りついていたソ連の名将、ジェーコフをヨーロッパ戦線に持ってこられるのですから。
それで、ソ連は対独戦に勝てました。
日本軍にもジェーコフのように自制できる将軍がいれば!
まあ、いなかったから負けた(戦争を起こした)のですけど。
いや、素晴らしい軍人さんもいました。
たとえば今村均 -ウィキペディアなど。
自制できない国家
日中戦争でも「満州でヤメとけばよかった」だの「いや、漢口まで」という人がたくさんいますが、無理だったでしょう。
中国側の挑発で2人が殺されても、すぐ大軍を派兵するぐらいでしたから。
まずは中国側に事情を聞き、交渉に入り...というプロセス、ゼロ。
ここで、英国の駐米大使ジェイムズ・ブライスと、日本の駐米大使館参事官、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)の会話を、岡崎久彦(著)『幣原喜重郎とその時代』から引用します。
日露戦争直後から、日本人の移民に対する排日法がアメリカで広がっていきます。
イギリスも、パナマ運河をめぐる問題でアメリカと対立していました。
一九十四年には、パナマ運河が開通するうことになった。さきにアメリカが英国と結んだ条約では英米船舶のあいだには差別待遇をしないという約束があったにもかかわらず、アメリカ議会は通行税を米国船には無料とし、外国船には重税をかけようとした。
英国は厳重に抗議し、ブライスもたびたび国務省、大統領のもとに足を運んでその阻止に努力したが、結局、法案は上院を通った。
ある日曜日、幣原は散歩の途中、英国大使館に立ち寄ってみた。「約束がないから」と遠慮しながらも夫人の招きでブライスの書斎に案内された。幣原はブライスを慰めるつもりで、「あなたがあんなに熱心に抗議したのに、議会を通過しましたね」というと、ブライスは平然として「ええ、通過しました」という。「どうしますか、抗議を続けられるでしょうね」と聞くと、「いいえ、、もう抗議はいっさいしません」という。その答えがあまりにもあっさりしているので幣原は不可解だった。「そもそも条約違反だし、貴国の世論もやかましいでしょう」というと、ブライスは昂然(こうぜん)として答えた。
「いいえ、どんな場合でも、英国はアメリカと戦争しないという国是(こくぜ)になっています。いま抗議を続ければ、それは結局戦争にまで発展するほかありますまい。戦争する腹がなくて抗議ばかり続けてなんの役に立ちましょうか。われわれが恥をかくだけです。私はもう抗議などという有害無益の交渉はまったくやめて、このまま打ち棄てておきます。区区(くく)たる面目や、一部分の利害に拘泥(こうでい)して、大局の見地を忘れてはなりません」
パナマ運河をめぐる差別待遇は2年で解決した。
一方、日本人に対する差別はひどくなるばかり。
幣原はたまたま国務長官の待ち合い室で、とうに退職して米国訪問中のブライス会った。
幣原は、「いつかパナマ運河のお話を伺(うかが)ったが、あれから二年もたたずに差別関税が撤廃されてあなたの予言は的中した」と慶賀(けいが)の言葉を述べたうえで、「ところが日本に関するかぎり少しも的中していません」と冗談交じりでいうと、ブライスは急に真顔になって、幣原を睨(にら)みつけるようにしていった。「あなたは国家の運命が永遠であるということを認めないのですか。国家の長い生命からみれば五年や十年は問題ではありません。功を急いで紛争を続けていては、終(しま)いにはにっちもさっちもいかなくなります。いま少し長い目で国運の前途をみつめ、大局的見地をお忘れにならないように願います」。幣原は、「まるでお祖父(じい)さんに訓(おし)えられるような気持ちだった」と述懐している。
― 以上、岡崎久彦(著)『幣原喜重郎とその時代』から引用
今でも与党・野党のあいだで、選挙対策のために、国益無視な議論が続いています。
ある程度はしかたがないとは思いますが、もうちょっと、どうにかしてもらいたいですね。
偽りの「常在戦場」
上で書いたように、佐久間の門下生に山本虎三郎(長岡藩)がいました。
山本が建てた学校の卒業生に、冒頭で少し書いた、のちの連合艦隊司令長官、山本五十六がいます。
山本五十六といえば真珠湾攻撃の立案者。
でもこの真珠湾攻撃(1941年)、何度考えてもわからないんですね、目的が。
有名な言葉、
それは是非やれと言われれば、はじめ半歳か一年の間は随分と暴れて御覧に入れる。しかしながら二年三年となれば全く確信は持てぬ
これならわかる。
確かに真珠湾後、日本は一年間は無敵だった。
ですけど、一年後には形勢不利になるのはわかっていた。
というのは、1940年にアメリカでヴィンソン法が可決され、2年で空母11隻が竣工し、立場逆転することは、海軍首脳の全員が知っていましたから。
まさに、
それは是非やれと言われれば、はじめ半歳か一年の間は随分と暴れて御覧に入れる。しかしながら二年三年となれば全く確信は持てぬ
の通り。
こんなんで戦争を始めていいのか?
ハワイを占領するつもりもない(そもそも、たとえ占領しても、補給が困難だが...)。
石油タンクや工廠(こうしょう ※ 武器を製造したり、修理する所)は攻撃していない。
空母を一隻も撃沈していない(そもそも真珠湾は水深が浅いので撃沈は無理だが...)。
山本長官が及川古志郎・海軍大臣に宛てた手紙に次の言葉があります。
日米戦争に於いて我の第一に遂行せざるべからざる要領は、開戦劈頭(へきとう)敵主力艦隊を猛撃撃破して、米国及米国民をして救う可からざる程度に其の志気を沮喪(そそう)せしむること是なり...
つまり、「最初に一撃食らわせれば、アメリカは意気消沈する」ということ。
一撃食らわした結果、アメリカはどうなったか。
ご承知の通り、リメンバー・パールハーバー。
アメリカ政府は暗号読解で日本が攻めてくるのを知っていました。
攻撃目標はフィリピンだと思ったようですが。
一応、アメリカ政府はハワイ近辺にも機動部隊を発進させました。
それを率いるのがハルゼー中将。
「猛牛」とあだなされた、ほんとに「猛牛に大砲を積んだような」男でして。
「最初の一発は日本に撃たせろ」という命令を受けていましたが、部下に対し、「日本軍を発見したら、攻撃しろ」と。
猛牛さんに見つかっちゃえば良かったのに。
そうすれば真珠湾攻撃はなく、交渉に入るにせよ、そのまま戦争になったにせよ、アメリカ国民をあんなに怒らせることはなかった。
それにしてもローズベルト大統領の罪は大きい。
日本が攻撃してくるのを暗号読解で知りながら電報を打たなかった。
「最初の一発」を日本に撃たせるために。
その結果、2400人の米兵の命が失われた。
もう一度書きますが、「最初の一発」を日本に撃たせるため、に。
日本とアメリカのトップがこんなんですから。
落としどころのない戦争になってしまったのは当然ですね...。
余談ですが。
第三制空隊の隊長として真珠湾攻撃を行った、飯田房太・大尉(戦死後、二階級特進で、中佐)という方がおりまして。
燃料タンクを撃たれてしまい、帰還することは不可能、と思った飯田大尉は、基地の格納庫に「特攻」しました。
特攻のハシリでしょうか。
余談には余談がありまして。
アメリカ海軍、飯田大尉の行動に感激し、特攻から30年後の1971年に、「飯田房太大尉顕彰の碑」を特攻した場所に建てているんです。
自分はハワイには行ったことはないですが、行ったらぜひ立ち寄りたいですね。
嗚呼...ミッドウェー
山本五十六長官に話を戻します。
山本長官が発案した作戦で、その意図がわからないものに(山本長官発案の作戦は全部、意図がわかりませんが)、例のミッドウェー海戦(1942年6月5日)があります。
この敗北によって、日本海軍の虎の子、赤城・加賀・蒼竜・飛龍の空母4隻を失い、以後、日本は坂道を転がるように敗戦に向かっていきました。
アメリカの空母「ヨークタウン」の登場は日本軍にとって予想外でした。
なんせ、珊瑚海海戦(5月)でヨークタウンは中破し、修理に一ヵ月はかかるだろう、と海軍は思っていましたから。
ところがどっこい、アメリカ海軍、三日で修理完了。
日本軍の暗号は例によって例のごとく、アメリカ軍に解読されていたし、ヨークタウンの予想外の登場...。
しかし、最大の敗因は山本長官。
南雲艦隊のはるか後方、300海里(約550キロ)後方、戦艦・大和に乗ってブラブラしていました。
真珠湾もミッドウェーも自分が指揮する、といったのですが。
いつも部下の南雲中将にやらせました。
普通、空母を守るために先頭に戦艦をつけるのです。
だったら山本司令長官自身、長門(ながと)か陸奥(むつ)に乗り、空母を守るべきでした。
というか、そもそもなぜこんな作戦を実行したのでしょう?
アメリカの空母撃沈が目的なら、あんな遠くまで行く必要なし。
ミッドウェー島を占領するのが目的なら、それはアメリカに勝ってからでないと、不可能。
ミッドウェー島はハワイの北西にあり。
真珠湾の時でさえ、ハワイ占領は無理、と思っていたのでしょうから。
ハワイを取らずして、ミッドウェー占領は、なし。
地図を見れば、そんなこと一目瞭然。
ミッドウェー海戦について最後にひとつ。
加賀・蒼竜は撃沈され、赤城は炎上。
残るは飛龍のみ。
飛龍を指揮するは、当時、海軍内でさえ、猛勇果断な最高の指揮官、といわれていた山口多門少将。
南雲司令官が乗る赤城が炎上と見るや、すぐ「オレが司令官」と宣言。
その後の孤軍奮闘ぶりといったら...。
もうダメだ、となり、乗組員たちを下ろし、加来艦長と共に手を飛龍に縛りつけ、味方の駆逐艦に「飛龍雷撃」を命令。
※ 飛龍はアメリカ軍に撃沈されたのではなく、自爆させた。
そして、加来艦長に「いっしょに月でも眺めるか」といいながら、飛龍と運命を共にしました。
山本長官は飛龍を引っ張ってくるよう命じましたが、後の祭。
あんな後方にいなければ、空母1隻と、優秀な少将の命が助かった。
余談ですが、もうこの頃から始まっていたのですね。
艦と運命を共にする、という思想が。
戦争が進むにつれ、軍旗を奪われた、武器を奪われた、といって突撃していく空気が充満していきますが。
ですが、「情」で戦争したら、とても勝ち目はない。
まあ、そういう空気というか、精神論は戦前からありましたが。
「生きて虜囚の辱(はずかし)めを受けず」という言葉。
中世の武士の言葉のようですが、1941年1月に東条英機・陸軍大臣(当時)が言い出したものです。
衆寡敵せず、な時は...
日本人なら戦艦・大和を知っているでしょう。
少なくても名前ぐらいは。
起工は昭和12年11月で、竣工は16年の12月。
大和をみれば、日本の戦略がわかります。
敵軍を待ち受けて、撃つ、と。
なんせ最大速力が27ノット(約50キロ)。
当時、どの国でも戦艦は30~32ノット。
大和はいかにも遅い。
でもこれは、わざとなんです。
遅くてもいいから、大砲を、と。
大和の主砲は46センチの三連装砲が3つ。
当時は最新艦でも最大40センチ。
わずか6センチですが、中に込められる弾の重量は、面積ではなく体積ですから、単純計算で、1.2倍。
それが3つも。
明らかに迎撃(迎え撃つ)の思想。
日露戦争のように。
それが自分から出て行っては...。
小笠原諸島やサイパンで待ち受ければ、10年ぐらいは戦えたのではないでしょうか。
硫黄島という、面積約20平方キロの小さな島をアメリカ軍が落とすのに、9ヶ月ぐらいかかっています。
さらに、アメリカはこの一つの島を落とすのに、7千人近くの死者と、2万2千人近くの負傷者を出しています。
しかも戦争末期(1944年6月~翌年3月)で、日本は物資の不足が極まっていたというのに。
これは日本軍がトンネルを掘り、硫黄島を要塞化したから。
小笠原諸島・硫黄列島・マリアナ諸島・サイパンあたりが日本の防衛ライン。
それなのにサイパンを要塞化しなかったとは!
子供の遊びでも、こちらは10人、相手は30人だったらどうしますか?
子供でも、人数が少ない方は、隠れやすい場所に逃げ、相手が来るのを待ち受けるでしょう。
ニューギニアを越え、最後海、ガダルカナル...とあんなに手を広げるべきではなかったですね、海軍は。
当時、南方に送られる兵隊さんは、自分たちのことを「かまぼこ要員」と呼んでいたそうです。
目的地に着くまでに、撃沈され、サメのえさになるのがオチ、ということ。
無事に着いても、戦う相手は米兵と、飢餓。
インドの英雄、されど、日本人は知らず
スバス・チャンドラ・ボースという人を知っているでしょうか。
インド独立の英雄で、いまだに尊敬を集めている人物です。
インド国会議事堂にボースの写真が飾られています。
もちろん、ガンジーやネルーといった、日本の教科書にも出ている人の写真も飾られています。
ですが、ボースの写真があり、一段下がったところで、右にガンジー、左にネルー、というのが、みそ。
チャンドラ・ボースは日本軍と共闘しました。
まあ、この話は長くなるので書きませんが。
ボースの遺骨は今でも東京都杉並区の蓮交寺(れんこうじ)に眠っています。
毎年、蓮光寺ではボースの法要が行われているそうです。
インド人と付き合いがある方は、名前ぐらいは知っておいて損はないと思いますし、ボースの記念碑の前で手を合わせてきたよ、といえば、こじれた交渉も、かなりスムーズになることでしょう。
これからの課題
今は、思想というと大げさですが、そっち方面の本を読んでいます。
たとえば、戦争中、高級将官の間で日蓮がはやっていましたが、なぜでしょう?
日蓮の『開目抄(かいもくしょう)』を読むと、
我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目(がんもく)とならむ、我れ日本の大船とならむ、...
などといった、勇ましい言葉が出てきます。
でもまあ、まだよくわかりません。
あとは尊王思想ですね。
熊沢蕃山(ばんざん)・山崎闇斎(あんさい)などの本を読み始めましたが、漢文力のなさで、進まず。
ちょうどいい、幕末の志士たちのバイブルとなった頼山陽(らい さんよう)の書物を、漢文の勉強がてらに読み始めました。
というわけで、何年もかかると思いますが、少しずつ、こっちの方面の勉強をしようかと思っています。
お酒は記憶の特効薬?
今回書いた記事は、ここ数日、酔っ払いながら、「となりのひと」に語ってた(らしい)話で、「先の大戦」に関係することを少しまとめてみたものです。
自分はどうも酒を飲んでいてスイッチが ON になると語りだすようで...。
おとといは中国の古代王朝、殷(いん)の最後の皇帝、紂(ちゅう)に対する、文王と武王の対応についての、江戸時代の学者たちの議論について語っていたそうです。
昨晩は、スイッチ ON 後、「長野の善光寺(ぜんこうじ)の仏像、あれは本物かね?」と、いきなり聞いてきたようで...。
欽明天皇の時代(6世紀中葉)に、渡来系の蘇我稲目(いなめ)と、天孫降臨の神さま(当時は実話と誰も思っていました)の子孫、物部尾輿(おこし)・中臣鎌子(かまこ)の間で、拝仏するかどうかの対立がありました。
この問題は以後も何度か繰り返されますが、稲目 VS 尾輿・鎌子は、その最初。
口論していても、神学論争。
「じゃあやってみれば」と、仏像礼拝をお許しになる欽明天皇。
ところが拝仏したところ、疫病がはやって...。
それみたことか、と尾輿と鎌子。
仏像を、難波の堀江に「ポイッ」。
そこに通りかかったのが、本田善光(よしみつ)。
聞こえるのは、泥の中から善光を呼ぶ声。
その声の主が、今も善光寺にある(らしい)金色の仏像だとか。
この話をもとにした、江戸時代の川柳があります。
善光(よしみつ)と呼ぶは仏(ほとけ)の土左衛門(どざえもん)
善光(よしみつ)も木仏(きぼとけ)ならばうっちゃる気
風刺が効いていて、いかにも江戸時代の川柳。
なぜこんな話を(酔っ払って)突然し始めたのか?
と思っていたら、お昼に飲んだお茶を思い出しました。
缶に川柳が書いてあるやつです。
そこに「仏」という字を使った川柳があり、「ん...もうちょい」と。
その時は全く善光寺のことなんて頭に浮かばなかったんですが...。
お酒は記憶の特効薬、なのでしょうかね。
毎晩、こんな感じでして。
最近、スイッチ ON 後の「おしゃべり」は、歴史の関連が多いようです。
酒が進めば話が進む、のか、話が進めば酒が進む、のかは「卵とニワトリ」。
最近、となりのひと との会話はこれで始まります。
「オレはきのう、何の話をしてた?」
「...について熱く語ってた」
「いや、記憶にない」
「語ってたよ!」
「いや、記憶にない...」
こうなったら、
『まさペディア ~ 酔いどれ旦那のヨタ話、後始末』
というブログでも書いてみれば?
と。
世の中には同じような「憂き目」にあっている となりのひと もいるだろうから共感が共感を呼び...。
晴れて日本に「禁酒法」が成立。
余談ですが、アメリカのビックリ法、「禁酒法」をヤメたのが、ローズベルト大統領。
さらに余談ですが...。
いや、このへんにしときます...。
今夜、語る。飲みながら。


コメント
from 蒼龍
後出しじゃんけんですね。
だらだら長くて何をおっしゃりたいのか意味がわからないけど...
2009年7月29日 07:42
from まさんた
蒼龍さん、初めまして。
かくいう自分も何を書いたか覚えておらず…
読み返す気にも、さらさらなれず…
2009年7月29日 17:19
from 匿名
何を言いたいのかよく分からなかった。
2009年10月10日 23:53
from 管理人 まさんた
>何を言いたいのかよく分からなかった。
言いたいことは、(途中略)ということです!!
2009年10月11日 21:31
from 匿名2
研究を深め、ご自分の意見をじっくり構築してから発表になった方がよいと存じます。
勉強なさっているのは端々からうかがえます。もしかするとご意見のもとになっている資料の質がよくないのかもしれません。かなりの箇所で誤り(誤解?)が見られます。
せっかくここまで書かれたのですから、時間をかけて批判に耐えうるものにして頂きたく存じます。
2011年4月10日 10:06
from まさんた
2さん、はじめまして。
この記事は、ダラダラと酒を飲みながらウダウダと書こうと思って書いた記事です。
元記事はこの3倍ほどでしたが、しらふの時斜め読みし、長いので削りました。
2さんのおっしゃる「誤り(誤解)?」が何を指しているのかはわかりませんが、まあ、誤りはたくさんあるでしょう。
「誤り」のない資料などない、とは言えないまでも、完璧な資料というのがあるのかどうか。
結局は自分自身で信頼できる、と思った本を元ネタにするしかないと思います。
歴史についてはこの記事を書いたあとも「研究」などと大それたことは言いませんが、少しずつ勉強しています。
ですけど、「批判に耐えうる」ものなど書ける自信はありません。
2さんが具体的に「ここは間違え」と指摘して頂ければ、真摯に受け止め、削除するなり、書き直します。
ですけど、醜態は醜態のまま残しておくのも、またアリかと思っている次第で。
2さんに対する批判のようになってしまいましたが、おそらくこの記事をきちんと読んで下さったのだろうかと。
この記事は長くて読む人はいないだろう、と思いながらも、公開しました。
ベトナム戦争と第二次世界大戦の起源(http://www.ma-santa.com/2006/11/post_7.html)もそうですけど。
歴史ネタは当ブログ、というか、僕には合わないのかもしれませんね。
2011年4月10日 21:02