2008年10月 5日
福沢諭吉、英学を志す
福沢諭吉は天保五年(1835年)に大阪で生まれました。
父は豊前中津藩(現在の大分県中津市)の士族、福沢百助。母は同じ中津の士族で、橋本浜右衛門(はまえもん)の長女、於順(おじゅん)。
諭吉は五人兄弟の末っ子でしたが、数え年三歳、今の満年齢でいうと、1歳と6ヶ月で父が病死してしまう。
そして、福沢家は母子、六人で中津に戻ることに。
門閥制度は親の敵(かたき)
これから福沢諭吉の自伝、『福翁自伝』(岩波文庫版)を引用しながら、諭吉の生涯を追っていきます。
※ルビは( )内にしました。ただし、ルビが文庫版についていなくても、かなり自分でつけくわえました。『福翁自伝』以外の本も同様。
諭吉の父、百助は根っからの儒教主義者。
金銭なんぞ取り扱うよりも読書一偏の学者になっていたいという考えであるに...
実際にさせられていた仕事は、鴻之池といった、今でいう財閥のようなところに、藩のために金を借りにいく役目でした。
不満だったことでしょう。
今の洋学者とは大いに違って、昔の学者は銭を見るのも汚(けが)れると言うていた純粋の学者が、純粋の俗事に当るという訳(わ)けであるから、不平も無理はない。
諭吉らが九九を習っていると、「幼少の子供に勘定のことを教えるというのはもっての外だ。怪しからぬ」と連れ出されたこともあったそうです。
その書き残したものなどを見れば真実生銘(しょうみょう)の漢儒で...その威風はおのずから私の家には存していなければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合(つきあい)は少なく、明けても暮れてもただ母の話を聞くばかり、父は死んでも生きているようなものです。
福沢諭吉といえば、経済の重要性を声を大にして唱えた人物。
たとえば、『学問のすヽめ』では、商売の棚卸(たなおろし)にまで言及しています。
...故に商売に一大緊要なるは、平日の帳合(ちょうあい)を精密にして、棚卸の期を誤らざるの一事なり。
※帳合とは、今でいう複式簿記。
金勘定が大嫌いだった父が後年の諭吉を見たらどう思うでしょう?
まして諭吉の顔が一万円札に刷られているのを見たら!
もちろん、諭吉が変わったのは、いわゆる「開国」のせいなんですけどね。
ペリーでも誰でもいいんですけど、もし日本に「開国」を迫る国がなかったら、江戸幕府は延々と続いたことでしょう。
それはともかく、諭吉は封建制度を憎んでいたようです。
子は生まれながらにして、親の跡を継ぐことが運命づけられている。
出世するには学問の道がありましたが、荻生徂徠などは例外として、ほとんど出世の道は閉ざされていたのも同然でした。
こんなことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。また初生児(※諭吉のこと)の行末(ゆくすえ)を謀(はか)り、これを坊主にしても名を成さんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深き、私は毎度このことを思い出し、封建の門閥(もんばつ)制度を憤(いきどお)ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私のために門閥制度は親の敵(かたき)で御座る。
ですから、その門閥制度が滅んでいく明治維新が痛快でたまらなかったようです。
明治維新の世の中と為(な)りて、維新怱々(そうそう)門閥廃止の端緒を聞きたるこそ千載(せんざい)の大愉快なれ。当時洋学者流の心事を形容すれば、恰(あたか)も自分の綴(つづ)りたる筋書を芝居に演じて其(その)芝居を見物するに異ならず。
―『福翁百余話』
漢書を学ぶ
江戸時代は、六歳ぐらいから漢文を習うのが普通でしたが、諭吉は遅かったようです。
「十四か十五」と書いていますが、満年齢でいうと2歳ぐらい引いて考えなくてはなりません。
それでも遅いほうです。
根ッから何にもせずにいたところが、十四か十五になってみると、近所に知っている者はみな本を読んでいるのに、自分独り読まぬというのは外聞が悪いとか恥かしいとか思ったのでしょう。それから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行き始めました。
初めの頃はみんなに遅れがちでしたが、やはり、そこは福沢諭吉。
私は天稟(てんぴん)、すこし文才があったのか知らん、よくその意味を解(げ)して朝の素読に教えてくれた人と、昼からになって蒙求(もうぎゅう)などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。
ここに出る先生は、先生といっても、先輩の書生です。
この頃の塾では、後輩を教えて半人前、という感じでした。
さて、それからの読書歴はスゴイのひと言。
とにかく、あらゆる本を読んでいるんですね。
...殊(こと)に私は左伝が得意で、対外の書生は左伝十五巻の内三、四巻でしまうのを、私は全部通読、およそ十一度(た)び読み返して、面白いところは暗記していた。
左伝(春秋左氏伝)を11回とは!(そしてなぜ中途半端な11回?)
左伝を1回でも読むのは半端じゃなく大変。(当然、自分は挫折)
余談ですが、福沢諭吉は封建制度は「敵(かたき)」だと言っていますが、その「封建」という言葉が最初に使われたのが、諭吉の得意な『左伝』だったりします。
余談として。
それで一ト通りの漢学者の前座ぐらいにはなっていたが、...
現代なら、この段階で福沢諭吉は漢学の「大教授」でしょう。
江戸時代は、学問イコール漢学でした。
日本人が本格的に英語を学び始めてからまだ120年ぐらいしか経っていませんが、漢学の歴史はその10倍以上。
白刃飛び交う中、度胸と運だけで幕末を乗り切った志士たちも、その漢文の素養の高さは今では考えられないほど。
だからこそ、英語(やその他の欧米語)が日本に入ってきたとき、「銀行、郵便、哲学、野球」など、基本2文字で訳語をつくることができた。
今はそれがなくなりました。なんでもかんでもカタカナで処理。
しかも長い単語はカタカナ4文字に縮めて。インフレ、インフラ、インフルエン...は四文字じゃないか。
話がそれそうなので、その語の福沢諭吉。
横文字に初めて出会う
諭吉は21歳(今でいう、19歳)の時、長崎に出かけました。
そこで、初めて横文字(オランダ語)に出会う。
都会の地には洋学というものは百年も前からありながら、中津は田舎のことであるから、原書はさておき、横文字を見たことがなかった。ところがそのころは丁度ペルリの来た時で、アメリカの軍艦が江戸に来たということは田舎でもみな知って、同時に砲術ということが大変喧(やかま)しくなって来て、ソコデ砲術を学ぶものは皆オランダ流に就(つ)いて学ぶので、そのとき私の兄が申すに「オランダの砲術を取調べるには如何(どう)しても原書を読まねばならぬ」と言うから、私にはわからぬ。「原書とは何のことです」と兄に質問すると、兄の答に「原書というはオランダ出版の横文字の書だ。いま日本に翻訳書というものがあって、西洋のことを書いてあるけれども、真実に事を調べるにはその大本(おおもと)の蘭文の書を読まねばならぬ。それについては貴様はその原書を読む気はないか」と言う。
諭吉の答え。
ところが私は素(も)と漢書を学んでいるとき、同年輩の朋友の中では何時(いつ)も出来が好(よ)くて、読書講義に苦労がなかったから、自分にも自然頼みにする気があったと思われる。「人の読むものなら横文字でも何でも読みましょう」と、...
アルファベット26文字を覚えるのに三日かかったという。
自分たちが見慣れないギリシャ文字を覚えるようなものか。
長崎で1年ぐらい、オランダ語の勉強をしたようです。
居候したのは、山本物次郎という砲術家の家。
原書というものは初めて見たのであるが、五十日百日と、おいおい日を経(ふ)るに従って、次第に意味が分かるようになる。
ところが、同じ時期に長崎にいた中津藩家老の息子、奥平壱岐(らいき)と不仲になり、中津へ帰らされることに。
だが、諭吉は中津へは帰らず、江戸へ行く決心をする。
道中、かなり卑怯な手を使って。
この御方(おんかた)は中津の御家中、中村何様の若旦那で...
などニセの手紙を作ったり。
無事、下ノ関に着いたときのひと言。
悪いことだが全く贋手紙の功徳(くどく)でしょう。
その後、大阪へ到着。
そこで先に長崎から帰っていた兄に「大阪で蘭学を学ぶが宣(よ)い」と言われ、医師であり、蘭学者でもあった緒方洪庵の塾に入門することに。
でも兄がリュウマチにかかってしまい、諭吉自身も腸チフスに。
それで、療養のため、中津へ帰ることに。
中津でも、築城書を盗写したり、諭吉っぷりを発揮しています。
福沢諭吉というと、「堅物」というイメージを持っている方も多いかもしれません。
実際は、正反対。
そのへんを、当時の書生たちの暮らしぶりとあわせて。
書生たちの放蕩ぶり
江戸時代の書生たちというと、礼儀正しく、正座しながら黙って本を読む、というイメージですが、これが全く違いまして。
諭吉はチフスが全快し、また大阪の緒方洪庵の塾へと戻りました。
その時のエピソードを。
まず、冬はともかく、夏は基本、真っ裸で暮らしていたそうです。
...夏は真実の裸体(はだか)、褌(ふんどし)も襦袢(じゅばん)も何もない真裸体(まっぱだか)。勿論(もちろん)飯を食う時と会読をする時には、おのずから遠慮するから何か一枚ちょいと引っ掛ける、...
裸といえば、こんな話も。
ある夏の夕方、5・6人で酒を飲もう、飲むなら涼しいところがよい。では物干しの上で、ということに。
だが、物干しの上には先客が。
下働きをしている女たちが3.4人。
そこで、松岡勇記という「至極元気の宣(い)い活発な」男が...
僕が見事にあの女共(ども)を物干から逐(お)い払ってみせようと言いながら、真裸体(まっぱだか)で一人ツカツカと物干に出て行き「お松どんお竹どん、暑いじゃないか」と言葉を掛けて、そのまま仰向(あおむ)きに大の字に成って倒れた。この風体を見ては、...
お松どんたちは、「気の毒そうな顔をして、みな下りてしまった」。
同じようなことを諭吉もやっています。
ただ、下働きの女だと思ったら、それが先生の奥さんで...。
こればかりばかりは生涯忘れることが出来ぬ。先年も大阪に行って緒方の家を尋ねて、この階子段の下だったと四十年前のことを思い出して、独り心の中で赤面しました。
福沢諭吉といえば、大の酒好き。いや、酒好きという言葉では足りないくらい。
自分の悪いことを公にするは余り面白くもないが、正味(しょうみ)を言わねば事実談にならぬから、まず一ト通り幼少以来の飲酒の歴史を語りましょう。そもそも私の酒癖(しゅへき)は、年齢の次第に成長するに従って飲み覚え、飲み慣れたというでなくして、生まれたまま物心の出来た時から数寄(すき)でした。
「幼少以来の飲酒の歴史」...。
こんな言葉、初めて見た。
俗にいう酒に目のない少年で、酒を見ては殆(ほとん)ど廉恥(れんち)を忘れるほどの意気地なしと申して宜(よろ)しい。
「俗にいう酒に目のない少年」...。
俗にいうか?
福沢諭吉と酒の話を書くときりがありませんが、面白いのでもうひとつ。
また私は酒のために生涯の大損をして、その損害は今日までも身に付いているというその次第は、緒方の塾に学問修業しながら、兎角(とかく)酒を飲んで宣(よ)いことは少しもない。これは済まぬことだと思い、あたかも一念ここに発起したように断然酒を止めた。
するとまわりの塾生たちが、三日しか持たないだろう、などと大騒ぎ。
十五日ぐらい禁酒していたら、
親友の高橋順益が「君の辛抱はエライ。よくも続く。見上げてやるぞ。ところが凡(およ)そ人間の習慣は、仮令(たと)い悪いことでも頓(とみ)に禁ずることは宣(よ)ろしくない。到底出来ないことだから。君がいよいよ禁酒と決心したらば、酒の代わりに煙草を始めろ。何か一方に楽しみが無くては叶(かな)わぬ」と親切らしく言う。
ところが諭吉は大の煙草嫌い。
まわりの煙草のみにたいし、さんざん文句をつけていたそうです。
だが。
今になって自分が煙草を始めるのは如何(どう)もきまりが悪いけれども、高橋の説を聞けばまた無理でもない。「そんならやってみようか」と言って...
「忌(いや)な煙草を無理に吹かして」いると、「だんだん風味が善(よ)くなって来た」。
そしてついに。
凡(およ)そ一ヵ月ばかり経って本当の煙草客(たばこのみ)になった。
問題の酒のほう。
ところが例の酒だ。何としても忘れられない。卑怯とは知りながら、一寸(ちょい)と一盃やってみると堪らない。モウ一盃、これでおしまいと力んでも、徳利(とっくり)を振ってみて音がすれば我慢が出来ない。とうとう三合の酒をみな飲んでしまって、また翌日は五合飲む。五合三合従前(もと)の通りになって、さらば煙草の方はのまぬむかしの通りにしようとしても、これも出来ず。馬鹿々々しいとも何とも訳けがわからない。迚(とて)も叶わぬ禁酒の発心、一ヵ月の大馬鹿をして酒と煙草と両刀遣(つか)いに成り果て、六十余歳の今年に至るまで、酒は自然に禁じたれども煙草は止みそうにもせず、衛生のため自ら作(な)せる損害と申して一言の弁解はありません。
自分も今年中に、禁酒・禁煙をしようと思っています。
ですが、絶対しないだろう、ということは、120%の確信をもって断言できます。
オランダ語を学ぶ塾生たち
だいぶ学問の話からそれてしまいました。
当時の塾生たちはどうオランダ語を学んだのでしょう。
引用すると長くなるので、自分なりにまとめます。
最初に学ぶテキストは『ガランマチカ』と『セインタキス』という二冊だそうです。
それがどんなものかは自分はわかりません。
その二冊を上級の者が教え、今度は生徒側が十人から十五人の前で解釈する。
それで合格となったら、
それからは専(もっぱ)ら自分自身の研究に任せることにして、会読本の不審は一字半句も他人に質問するを許さず、また質問を試みるような卑怯な者もいない。
読むものといえば、物理書と医書のみ。
しかも、
取り集めて僅(わず)か十部に足らず、...
それに、当然、同じ本が二冊あることはないので、手で移すことになる。
気軽に原書が買えて、買ったままで読まれない本が多い現在では考えられない話です。
さてその写本の物理書医書の会読を如何(どう)するかというに、講釈の為人(して)もなければ読んで聞かしてくれる人もない。内証(ないしょ)で教えることも聞くことも書生間の恥辱として、万々一でもこれを犯す者はいない。ただ自分一人でもってそれを読み砕かねばならぬ。読み砕くには、文典を土台にして辞書に便(たよ)る外(ほか)に道はない。
当然、辞書も『ヅーフ』と『ウェーランド』という二冊しかない。
ヅーフ部屋という字引のある部屋に、五人も十人も群(ぐん)をなして無言で字引を引きつつ勉強している。
『ヅーフ』という辞書はどんなものだったのでしょう?
これは昔、長崎の出島に在留していたオランダのドクトル・ヅーフという人が、ハルマというドイツオランダ対訳の原書の字引を翻訳したもので、...
と書いてありますが、よくわからない。
19世紀初頭、出島のオランダ商館長、ヘンドリック・ヅーフが誰かに命じて翻訳させたものか?
あくまで想像ですが。
昔は辞書に人の名前をつけることがよくありました。『岡倉英和(※研究社の大英和辞典)』とか『マーレー(※OED)』など。
鎖国とオランダ
ところで。
江戸時代、英語ではなく、オランダ語が学ばれていたのは、いうまでもなく、いわゆる「鎖国」により、欧米諸国では、オランダとしか接触がほぼなかったから。
なぜ日本は鎖国したか、について書くと長くなるし、そもそも語れるほどの知識はないのですが、鎖国なしに蘭学はないので、少し書きます。
外国と貿易すれば関税も入るし、海外のめずらしい物も手に入るので、信長や秀吉は最初は欧米諸国との貿易を歓迎していました。
しかし、問題はキリスト教にあり。
大村純忠父子は、長崎ならびに茂木をイエズス会に寄進し、わずかに関税を手もとに保留しただけで、その行政・司法・徴税の三権をことごとくイエズス会に譲り渡したので、わが国土の一部は、あたかも秀吉の制令の及ばない外人教会の所領と化して、伝道と貿易の中心となっていた。
―岩生成一(著)『鎖国』
こういうことは、日本のいたるところで見られました。
それから、案外知られていないことですが、日本人が奴隷として海外に売られていました。
日本からの帰航船にはいつも日本人奴隷を多く積み込み、ことに日本人女奴隷をさかんに連れ去って、風紀をみだすものも少なくなかった。
―『同書』
それもかなりひどい待遇だったようです。
...日本人男女数百名の多数を黒船に買い取り、手足に鉄の鎖をつけて舟底に追い込み、...
あまりにもムゴイのでこれ以上は書きません。
秀吉は日本国内での人身売買の禁令を出していたので、みのがせない事態だったでしょう。
ご存知のように、ポルトガルやスペインをはじめ、ヨーロッパ諸国はアジアや南米の諸国を植民地化していました。
そのやり口を、いわゆるサン・フェリペ号事件の際、秀吉政権の五奉行の一人、増田長盛(ながもり)に、うっかり教えてしまった水先案内人がいました。
ところが長盛が浦戸に滞在中に、サン・フェリペ号の水先案内人フランシスコ・デ・サンダが、取り返しのつかぬ失言をした。この水先案内人は、長盛に世界図をみせて、イスパニアの領土の広大なことを自慢した。そして、どうしてそんなに領土を拡大したかと尋ねられると、わが国ではまず宣教師を派遣してその国の人にキリスト教を伝えておき、信者が相応の数になったとき軍隊をさしむけ、信者の内応をえて、たやくす目ざす国土を征服すると答えた。
―『同書』
上に書いたように、領土を教会に寄進する大名が多数いました。
なんだかこの話、長くなりそう。
ほかにもなぜ鎖国に至ったか?、の理由はたくさんありますが、なぜ鎖国できたのか?、に話を進めます。
「出て行け」といわれ、そう簡単に引き下がるほどヨーロッパ諸国はヤワではありません。
実際、それで戦争になり、領土を奪われた南米の王朝はたくさんあります。
でも日本は強かったんですね。
秀吉、家康によって天下統一されましたが、長い戦国時代を経験したので、まだその気風はそのまま残っていました。
ではなぜオランダだけ最終的に貿易をみとめられたのか。
それはオランダはあまり宗教を持ち込まなかったから。
貿易して設けることができれば十分だと。
しかもオランダは日本貿易を独占するためにかなり強引な手法を使いました。
あまり知られていませんが、日本は当時、シャム(今のタイ)などの東南アジアの諸国とも貿易していました。しかも、かなりの量を。
でもオランダは東南アジアの国が日本へ貿易船を出すと、だ捕しちゃうんです。
そんなこんなで、海外事情はオランダ経由で日本に入ってくることになりました。
蘭学ことはじめ
そうしているうちに、貿易だけではなく、文化などの研究も次第に起こり始めました。
いわゆる、蘭学です。
蘭学といえば、やはりこの人、杉田玄白(1733~1817)。
杉田玄白の生涯は書きません。長くなるので(もうここまでで十二分に長いですが...)。
杉田玄白といえば、『解体新書』。
医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳です。
余談ですが、『ターヘル・アナトミア』はドイツ語からの翻訳で、『解体新書』は翻訳本の翻訳本、ということになります。
辞書も文法書もない環境でよくチャレンジしたな、と感心します。
しかも、それを心に決めたのが、39歳のときなのですから。
どれだけ大変だったかは、『蘭学事始』に書かれています。
その頃はデ(※英語の of)の、ヘット(※英語の it, the)の、またアルス(※英語の as)、ウェルケ(※英語の which)等の助語の類も、何(いず)れが何(いず)れやら心に落付きて弁(わきま)へぬことゆゑ、少しづつは記憶せし語ありても、前後一向にわからぬことばかりなり。たとえば、眉(ウエインブラーウ)というものは目の上に生じたる毛とあるような一句も、彷彿(ほうふつ)として、長き春の一日には明(あき)らめられず、日暮るゝまで考え詰め、互いににらみ会ひて、僅(わず)か一二寸(すん)ばかりの文章、一行も解(げ)し得ることならぬことにてありしなり。
ちなみに、玄白の弟子、大槻玄沢が1788年に『蘭学階梯』というオランダ語文法書を刊行します。
それまでも簡単な文法書はあったようですが、実質、大槻玄沢の書が日本産、ヨーロッパ語文法書の最初といっていいでしょう。
どんなものなのかは、知りませんが。
福沢諭吉も使ったのでしょうか?
余談ですが、『蘭学事始』に次のようなことが書いてあります。
また、実は漢学にて人の智見(ちけん)開けし後に(※蘭学が)出(い)でたることゆゑ、かく速やかなりしか、知るべからず。
つまり、漢学を学んだことによって、日本人の知識、理解力が向上したので、蘭学が比較的にすんなり広がったのではないか、ということ。
言ってみれば、日本の学問の伝統は、
漢学 → 蘭学 → 英学
一番大変だったのは、漢語に出会った時代でしょうね。
文字を持たない民族であった日本に、漢語、しかも儒教や仏教といった、かなり高度なものが入ってきたのですから。
英語に出会う
鎖国や蘭学の話をしている間に、諭吉は横浜に出かけていました。
そして、
横浜から帰って、私は足の疲れではない、実に落胆していまった。これはこれはどうも仕方がない、今までの数年間、死物狂(しにものぐる)いになってオランダの書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今は何にもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、さりとは誠に詰(つま)らぬことをしたわい、と実に落胆してしまった。
世はもう、英語の時代に入っていました。
ここで開国の話をすると、さらに長くなるのでスルーします。
さて、落胆しきった福沢諭吉、どうしたでしょうか?
ところで今、世界に英語の普通に行われているということはかねて知っている。何でもあれは英語に違いない、今我国は条約を結んで開けかかっている、さすればこの後は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければ迚(とて)も何にも通ずることが出来ない、この後は英語を読むより外(ほか)に仕方がないと、横浜から帰った翌日だ、一度(ひとたび)は落胆したが同時にまた新たに志を発して、それから以来は一切万事英語と覚悟を極(き)めて、...
福沢諭吉、ついに英学に志しました。
その変わり身の早さ、お見事。
ですが、横浜で薄い蘭英会話書を二冊買って来た、とのことですから、横浜で半分ぐらい、覚悟は決めていたのでしょう。
さて、英学を学ぶ決心をしたが、辞書がなければどうしようもない。
そこで、藩に頼んで「ホルトロップ」という英蘭辞典を買ってもらいました。
サアもうこれで宜しい、この字引さえあればもう先生は要らないと、自力研究の念を固くして、ただその字引と首っ引きで、毎日毎夜独(ひと)り勉強。またあるいは英文の書を蘭語に翻訳してみて、英文に慣れることばかり心掛けていました。
英文和訳ではなく、英文蘭訳。
それが良かったのかもしれません。
...詰まるところは最初私共が蘭学を捨てて英学に移ろうとするときに、真実に蘭学を捨ててしまい、数年勉強の結果を空(むなし)うして生涯二度の艱難辛苦(かんなんしんく)と思いしは大間違いの話で、実際を見れば蘭といい英というも等しく横文(おうぶん)にして、その文法も略(ほぼ)相同じければ、蘭書読む力はおのずから英書にも適用して、決して無益ではない。水を泳ぐと木に登ると全く別のように考えたのは、一時の迷いであったということを発明しました。
当時の日本には比較言語学など誰も知りませんでしたからね。
ほんと、英語とオランダ語では全く違う言語だと思ったことでしょう。
英語もオランダ語もゲルマン語の西ゲルマン語に属す、かなり近い言語です。
余談ですが。
福沢諭吉が英語を学ぶ決心をした三年後、英和辞典が出版されました。
幕府の外国語研究を担当する蕃書調所(ばんしょしらべじょ)が作った、『英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書』(1862年)というもの。
さらに余談ですが。
実はそのだいぶ前にも英和辞典は作られていました。
ナポレオン戦争の余波で起こった、例のフェートン号事件がきっかけ。
ナポレオンの勢力下にあったオランダとイギリスは対立しており、オランダ船だ捕のため、イギリスのフェートン号が長崎にやってきたのが発端で起きた事件。
学校で習った記憶があるでしょうから詳しくは書きませんが。
あまりのインパクトに幕府は英語の研究をさせたんです。
それで、できたのが、『諳厄利亜(あんげりあ)語林大成』。
1814年のことです。
収録語数は約6000といいますから、かなりのもの。
どんな感じだったかというと、たとえば、
bible ビブル 法教書
school スクール 書塾(テラ)
sweetheart スウイートヘールト 恋思女(コイメ)
なかなか面白い。
※日本初の英和辞書の話は高梨建吉(著)『文明開化の英語』などによる。
変則英語
「変則英語」という、聞き慣れない言葉があります。
これは福沢諭吉の英語、つまり、発音はあまり気にしない。
とにかく外国の原書を翻訳し、日本文化に取り入れることを最優先。
福沢諭吉の本を読んでいると、たまにカタカナに出会います。
そのカタカナの元の英単語はなんぞや?と推測のが面白い。
「ヲブセルウェーション」とは事物を視察することなり。
―『学問のすすめ』
「ヲブセルウェーション」は observation のことだろう、とか。
もちろん、福沢諭吉が自分で「変則英語」を名乗っていたわけではありません。
明治後期から大正期にかけて活躍した英学者、斎藤秀三郎が、正則英語学校を創立したときに生まれた言葉です。
この耳慣れない学校名は、斎藤の一番弟子・伝法(つのり)久太郎の提案によるものだと言われている。伝法が「今迄の〔発音無視・訳読中心の〕英語を変則流と云われるならば、こちらは正則英語ではどうです」と言うと、斎藤は「アヽ是れなる哉、是れなる哉、正則、正則」と答えたという。
―斎藤兆史(著)『英語達人列伝』
「正則英語」が誕生?したとき、福沢諭吉はすでに亡くなっていましたが(1901年没)、「福沢の英語は変則」だと、お墓の下で聞いたとしても、本人はまったく異に介さなかったでしょう。
福沢諭吉にとって、日本を開明するのが焦眉の急でしたから。
今回、この記事を書くのに福沢諭吉の本をかなり読みましたが、どの本を読んでも、その凛とした態度に感動しました。
そのうち、福沢諭吉の思想を書いてみようと思っています。
福沢諭吉の本を読んでみよう、と思われた方は、文庫で気軽に手に入る『文明論之概略』などがいいかもしれません。
余談ですが、丸山真男(1914~1996)という、1960年代、70年代に日本思想界のトップに君臨していた人が『文明論之概略を読む』という解説本を書いています。
この機会に読み返しましたが、これまためっぽう面白い。
なんせ、
文明を再建すべき価値体系がボルシェヴィズム以外の処には求められない事が明らかとなった。
―『現代政治の思想と行動』
と、スターリン体制下のソ連を絶賛する人物が、全く反対の思想を持つ福沢諭吉の本を解説するのですから。
たとえば「第3講 西洋文明の進歩とは何か」では、冒頭からマルクス・ビュアリ・ダーウィン・スペンサー・ヘッケル...と、そうそうたる思想家が登場し、いきなり、
ところで、福沢は歴史の無限のかなたに「文明の極致」という完成状態を予想しているので、やはり啓蒙の進歩の思想を受容していますが、ただ、同時に進化論的考え方もあります。福沢がスペンサーを読んだのは、『概略』を脱稿した直後だと思われますが、すでに『概略』の中に、対立とか闘争、そういうものを歴史的進歩の一つの契機とみています。競争や闘争を通じて人間は向上していくものだという考え方が入っている。
―丸山真男『文明論之概略を読む』
「闘争」という言葉。
そういえば、丸山真男が思想界のトップに君臨していた1960年代、1970年代は安保闘争や成田闘争といった、ナントカ闘争が大流行でした。
自分はその時代の空気にはふれていませんが。
それはともかく。
福沢は歴史の無限のかなたに「文明の極致」という完成状態を予想しているので...
とありますが、『概略』のどこを読んだらそんなことが書いてあるのだろう...と思って丸山真男が引用している部分を探すと...
今の時に当りて、前に進まん歟、後に退かん歟、進みて文明を逐(お)はん歟、退きて野蛮に返らん歟、唯(これ)進退の二字あるのみ。
―福沢諭吉『文明論之概略』
明治維新が成っても、まだ西洋文明に反対する勢力は大きかった。
これは単に、そういう人に対して言っている言葉にすぎないと思いますが...。
歴史の無限のかなたに「文明の極致」という完成状態
は「封建主義 → 資本主義 → 社会主義 → (完成形としての)共産主義」というマルクスのモデルとほぼ同じ。
こういう丸山真男一流のレトリックが次々に出てきます。
前述のように国体というのは、福沢によれば、自分の国の人民が自分の国の政治をとることでしょう。ですから、君主が政治をとっていたのが、例えば共和制になったところでそれは国体の変革に関係ない。
―丸山真男『文明論之概略を読む』
これを読むと、福沢諭吉は共和主義者とはいえないまでも、忠君の士ではないような印象を受けます。
ですが、福沢諭吉は熱烈な忠君の士でした。
皇統連綿を保護せんと欲せば、その連綿に光を増して保護す可(べ)し。国体堅固ならざれば血統に光ある可(べ)からず。
―福沢諭吉『文明論之概略』
結局は、国民次第
現在、マスコミでは、いわゆる「官僚叩き」が大流行。
福沢諭吉も官僚の批判を何度となくしていますが、今のマスコミと違うのは、同時にそういう官僚に、結局は従っている国民も批判しているところ。
そもそも我国の人民に気力なきその源因(げんいん)を尋ぬるに、数千百年の古(いにしえ)より全国の権柄(けんぺい)を政府の一手に握り、武備文学より工業商売に至るまで、人間瑣末(じんかんさまつ)の事務と雖(いえ)ども政府の関わらざるものなく、人民はただ政府の嗾(そう)するところに向かって奔走(ほんそう)するのみ。
※嗾する(けしかける、せきたてる)。
―『学問のすすめ』
今日本の有様を見るに、文明の形は進むに似たれども文明の精神たる人民の気力は日に退歩に赴(おもむ)けり。
―『同書』
福沢諭吉は人民(今でいう国民)に「文明開化」を説きました。
官を批判し、人民を叱咤するために、官職につかず、在野で一生を終えた。
最後に、福沢諭吉の思想が一番現れている文章を引用します。
我日本国民も今より学問に志し、気力を慥(たしか)にして先ず一身の独立を謀(はか)り、随(したが)って一国の富強を致すことあらば、何ぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり。
―『学問のすすめ』

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