2007年7月27日
翻訳って
外国の本を原文で読むのと、翻訳で読むの、どちらが多いでしょうか?
自分は圧倒的に翻訳で読むほうが多いです。
「洋書と英語の日々」なんていうブログをしていながら。
それは、苦労はするが、なんとか原書で読める外国語は(ほぼ)英語だけ、という簡単な理由。とはいっても、科学関係などの原書は逆立ちしたって読めませんけど。
そのほかの言語で書かれた本は、翻訳で読むしか選択の余地がありません。まあ、選択の余地があるとすれば、読むか、読まぬか、だけ。
で、今回は翻訳のはなし。
翻訳とは、結局…
以前、ジェーン・オースティン(Jane Austen)の「Pride And Prejudice」の翻訳比べをしたとき、こう書きました。
翻訳は、
結局は日本語の問題
かな、と。
柳瀬尚紀(著)「翻訳はいかにすべきか」を読んでいたら、こう書いてありました。
要するに、翻訳は日本語の問題である。結局は、それに尽きる。
明らかに、酷似しています・・・
「翻訳はいかにすべきか」は何年か前に何度も読んだので、頭の中に染み込んでいたのでしょう。
よって、訂正します。
翻訳は、
結局は日本語の問題
かな、と。©柳瀬尚紀さん
まあ、こういうことは有名な翻訳者の方々はみなさんおっしゃっているんですけどね。でも、なにはともあれ、©柳瀬尚紀さん
さて、本題。翻訳について。
その前に、ちょっと哲学用語の話を。
なるべく、引用された言葉についてのようにはならないように、ちゃんと書きます…
パロール
哲学の本を少しでも読んだことがある人には「パロール」という言葉はおなじみでしょう。
もとはフランス語(parole)で、「言葉」とか「約束」という意味です。
スイスの言語学者、フェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)が、その言葉にちょっと哲学的な意味を吹き込みました。
といっても、ソシュールのいうパロールとは、音(音素)のこと。
それが徐々に意味を広げていき、パロールというといろいろな意味で使われるようになってきました。
OED(Oxford English Dictionary オックスフォード英語辞典)の parole の定義は、
The actual linguistic behaviour of individual, in contrast to the linguistic system
-「OED」
簡単にいうと、
誰もが言葉を話して暮らしている、その実態。
みんな意識しないで会話しているが、それを意識の上にのせて考える、みたいなことです。
思い出した。
以前 parole について書いたことがあります。
もっとも、英語で「仮出所・仮釈放(させる)」という意味のことですが。
→ミステリーの英単語 parole
その余談で少し哲学用語「パロール」についても書いていました。
難解なのは、内容だけの問題にあらず?
「翻訳はいかにすべきか」に次の訳文があります。
フランスの哲学者、メルロ・ポンティの「シーニュ」という本の一文です。
訳したのは、大学の偉い先生。
言語に関する哲学の第一の任務は、いまや、私たちが或る言活動(パロール)の体系に内属していることを私たちに再発見せしめるところにあり、その言活動(パロール)の体系は、まさに私たちの身体とおなじように直接的に私たちに現前しているのであるから、私たちはそれを十全の有効性をもって使用しているということを、私たちに再発見せしめるところにあるようにみえる。
※引用中の(パロール)は、原文ではルビ。
これを理解できた方は、ブラウザ閉じて、町へ出よう。©寺山修司
フランス語の原文を載せたあと、柳瀬さんは、
…このきわめて読みやすいフランス語の翻訳を試験問題として提出されたならば、次のように訳す。
と前置きしたあとで、こう訳しています。
哲学が言語を相手にする場合、その第一の務めは、われわれがそもそも一つのパロールの体系内に居るということを再発見してみせることでありそうだ。その体系が肉体と同じく直(じか)に自分のものであるから、自在に駆使できるのである。
少しは難解ですが、そこは哲学ですから、ってことで。
それでも上の訳文よりはだいぶ日本語らしくなっています。
最近、トイレの中でメルロ・ポンティ関連の本(解説本)を読んでいます。
お風呂で読み返している「翻訳はいかにすべきか」にメルロ・ポンティの訳文が出てきたので、なんとなく、引用してみました。
もちろん、メルロ・ポンティを扱った本はトイレで読むべき、と言いたいのではなく、同じ文でも、訳し方によって、だいぶ違うものになる、ということを言いたかったわけです、念のため。
「ユリシーズ」の冒頭、マリガンの態度の訳
ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)の「ユリシーズ(Ulysses)」の冒頭はこんなふうに始まります。
柳瀬(訳)と、丸谷才一・永川玲二・高松雄一(共訳)を比べてみます。
柳瀬(訳)
ふんぞり返って、ふっくらなバック・マリガンが…丸谷・永川・高松(共訳)
重々しく、肉づきのいいバック・マリガンが…
原文は、こう。
Stately, plump Buck Mulligan …
英文の細かい吟味は今回はヤメときます。
長くなりそうなので・・・
この場面は、マリガンという、ちょっと扱いにくそうな青年が、ふざけてミサのマネをする場面。
stately (これは副詞ではなく形容詞)は、「おごそかな」。
厳かに、…
で始まって、読み進めると途中で、「あ、バカにしているのか」と気づくのが普通の翻訳。
柳瀬訳は、最初からマリガンがミサをバカにしているニュアンスたっぷりで翻訳しています。
それでいいのか、悪いのか?
自分は最初に「ユリシーズ」を読んだとき、丸谷訳を参考にしました。
本の三分の一が訳注なので、とっても便利でした。
で、あとで柳瀬訳を読んで、「なるほど・・・」と思うところ、多々あり。
でも柳瀬さんの翻訳は好き嫌いが分かれるようです。
確かに柳瀬さんの訳には意訳どころか「やりすぎでは?」という訳もあったりします。
自分はそこらへんがけっこう気に入っているんですけど。
翻訳者はたいへんそう
大学の先生なら、古典小説を何年もかけてじっくりと翻訳することも可能でしょうが、翻訳だけで生活をまかなっているプロの翻訳者の方々はたいへん、という話を読んだことがあります。
どのくらいの期間で訳しあげなければならないのかは、よくわかりませんが、締め切りはあるでしょう。
当然、一行、一行にそんなに時間をかけるわけにはいきません。
そして、誤訳を指摘する、いわゆる「誤訳パトロール」でとりあげられる結果に。
自分も以前、「これって誤訳なんじゃないの?」みたいな記事を書いちゃったりしましたが・・・→吸い殻は、どこだ!?
あれ、吸い殻はどこなのでしょう?翻訳者ではなく、自分の間違えか?
自分が間違っていたら指摘してくださるとありがたいです。
間違っていた場合、翻訳者の方への謝罪の言葉をブログに書かなければならないので。書いたはいいものの、ずっと気になっておりまして。
いつになるのか「ユリシーズ」
「Ulysses」のことをブログで書こうと、久しぶりに読み返しました。
読み終えるのに二ヶ月かかりましたorz (←最近よく見かけますけど、どういう意味?ダメだぁ・・・みたいなニュアンスの文についてますが)
で、「Ulysees」のことを書き始めましたが、どうにも収集がつかなくて…
「Ulysses」は全部で18章から成ります。
少し書き始めましたが、このままいくと、読まずにただ最後までスクロールするだけで指が関節炎になるくらい長くなりそう。
世の中、「エコ」の時代。
よって、サーバーにも、エコ。
書いた記事はボツ。
とうか、自分で読んでもつまらなくてorz ←調べました。なるほど。
「Ulysses」は、「難解」なことで有名ですが、正確にいうと、難解に読もうとすると難解で、楽しく読もうとすると楽しい小説です。
その面白さだけを楽しく伝えられたら、と思い、「ユリシーズの面白さ」という題にして書き直そうかな、と考えている最中です。
翻訳ではなく、自分の近況の話になってしまいました。
まあ、そんなわけでしてorz ←別に気に入ったわけじゃないですけど。
最後に、翻訳はいかにすべき、なのでしょうか?
ん・・・やっぱり、
結局は日本語の問題 ©柳瀬尚紀さん
かな?
そもそも翻訳とは・・・
翻訳するにせよ、
翻訳を読むにせよ、
翻訳、それはあなた自身です!
じゃダメ? だな・・・

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