続「プライドと偏見」、そして大いなる「高慢と偏見」

前回の「プライドと偏見」の続き。

というか、前回引用した英文の翻訳比べ。

同じ作品でも訳者が違うと…

について。

では、さっそく。

まずは、ダーシーが人気者から嫌われ者へと変わる場面。

…and he was looked at with great admiration for about half the evening, till his manners gave a disgust which turned the tide of his popularity:for he was discovered to be proud, to be above his company, and above being pleased;…

直訳で読んでみます。

…and he was looked at
そして彼は見られていた

with great admiration
大いなる感嘆で

for about half the evening,
その夜の半分くらいの間は

till his manners gave a disgust
彼の態度が嫌悪感を与えるまでは

which turned the tide of his popularity
(その嫌悪感は)彼の人気の流れを変えた。

翻訳比べ。

【中野訳】
そんなわけで、その晩も半ばころまでは、すっかり感嘆の眼で見られていたのだが、そのうちに、彼の態度は妙に反感をそそるということで、人気の風向きはすっかり変わってしまった。

【富田訳】
そしてその夜の中半頃までは、彼も驚嘆の眼で見られていたが、とうとう彼の態度が嫌悪感を与え、人気の汐が引いていった。

富田訳、

とうとう彼の態度が嫌悪感を与え、

が、文の流れからいって、唐突すぎるような気がします。

中野訳と比べるとどうでしょう?

そのうちに、彼の態度は妙に反感をそそるということで、

唐突さがなく、流れとしてスムーズ。

次の文。

for he was discovered to be proud, to be above his company, and above being pleased

直訳します。

for
というのは

he was discovered
彼は…なのがわかった(から)

to be proud,
高慢で

to be above his company,
一座の人たちを見下しており
¶company/ムパニ(名)人の集まり,一座の人たち。

and above being pleased
とてもじゃないが、楽しませることなどできない

翻訳比べ。

【中野訳】
理由は、お高くとまって、一座のみんなを見下している。面白そうな顔もしない、というのである。

【富田訳】
というのは、彼はお高くとまっていて、一座の人々を眼下に見下し、いっしょになって楽しまないということが、わかってきたからであった。

富田訳の「一座の人々を眼下に見下し」が気になりました。

確かに「眼下に見下す」という言葉はありますが、中野訳の「見下している」で十分だと思います。

tolerable、というと・・・どのくらい?

次はダーシーがエリザベスに対してセクハラを言う場面。

toleralbetempt に、注目。

…and turning around, he looked for a moment at Elizabeth, till catching her eye, he withdrew his own and coldly said, “She is tolerable;but not handsome enough to tempt me;…

直訳。

and turning around,
そして振り向き、

he looked for a moment at Elizabeth,
エリザベスをちょっと見た

till catching her eye,
そのうち彼女と目が合うと

he withdrew his own and coldly said,
彼は目をそらし、冷たく言った

“She is tolerable
「彼女は tolerable

;but not handsome enough
でも(…ほど)美人じゃない

to tempt me;
僕を tempt する(ほど)

問題は、tolerabletempt

tolerable をCOD(Concise Oxford English Dictionary コンサイスオックスフォード英語辞典)で調べると、

tolerable ■ adj. able to be tolerated. fairy good.
-「COD」

は、「がまんできる」。

は、「かなり良い」、または「そこそこ良い」。

fairly good が二つの意味になるのは、fairly という単語の意味の広さのため。

ジーニアス英和辞典で fairly を調べると、

かなり,相当に;いくらか,いくぶん.
「ジーニアス英和辞典」

ずいぶんと範囲が広いです。

例文として、次の英文が載っていました。

The test was fairy easy.
テストはかなりやさしくてよかった.

Tom is fairly cleaver, but Peter is rather stupid.
トムはまあまあ賢いが、ピーターは実にばかだ.

「かなり」から「まあまあ」まで。広いです。

tempt については、のち。

とりあえず、翻訳比べ。

【中野訳】
ミスタ・ダーシーは振り向いて、ちょっとエリザベスを見たが、視線がぶつかると、つと眼をそらせて冷ややかに言った。「まあ、相当じゃあるねえ。だが、とても心を動かされるほどのもんじゃない。

【富田訳】
彼はふりむいて、ちょっとエリザベスを見ていたが、彼女と視線があうと、眼をそらして冷ややかに言った、「がまんはできるけど、僕が誘惑されるほどの美人じゃないね。

もう一度、COD の tolerable の定義を。

able to be tolerated
fairly good

まずの able to be tolerated。

tolerate 「我慢する,大目に見る」の受身です。

she is tolerable を言い換えると、

I can tolerate her.
僕は彼女を我慢できる/大目に見ることは出来る。

少し否定的な感じ。

「美人ではないが、我慢しようと思えば我慢できるレベルだ」ということ。

富田訳「がまんはできるけど」では1番目の定義で解釈しています。

次に fairly good 「かなり良い」、または「そこそこ良い」で解釈。

She is tolerable.
彼女はかなりの美人だ/彼女はそこそこ美人だ。

中野訳「まあ、相当じゃあるねえ」は、ちょっと迷いました。

相当じゃあるねえ

という言葉を聞いたことがなかったので。

でも「相当(そうとう)」は、「かなり」の意味。

ということは、2番目の定義(fairly good)。
しかも、良いほう(かなりの美人だ)。

そうすると、3番目の定義、「そこそこ美人だ」、という解釈も含めると、

She is tolerable

は三通りの解釈ができます。

彼女の顔は、我慢できるくらいだ。少し否定的
彼女は、かなりの美人だ。大絶賛
彼女は、そこそこ美人だ。微妙な、ほめ方

富田訳は、1で解釈。
中野訳は、2の解釈。
3の解釈は二人ともとらず。

どの解釈がよいのでしょう?

のちほど引用する英文に次の言葉があります。
翻訳だけ載せると、

【中野訳】
はじめはエリザベスを、ほとんど美人とは認めていなかった。

【富田訳】
ダーシー氏は、最初は彼女をきれいだとは思わなかった。

ズバリ、

エリザベスは美人じゃない

と断言。

そうすると、1の解釈、富田訳の、

がまんはできるけど

が正しいのでしょうか?

となると、中野訳、「まあ、相当じゃあるねえ」は、正反対の訳で、間違い、ということになります。

しかし、小説全体に一貫性を求める必要はないと思います。

あくまで、その場面、

“She is tolerable;but not handsome enough to tempt me;

と、その周辺だけで解釈したほうがいいと思います。

このダーシーの失礼千万な発言は、友人のビングリー(Bingley)が話しかけたことに対するダーシーの返し。

ビングリーは次のようにダーシーに語ります。

文中の、「ひとり/一人」というのは、エリザベスのこと。

...But there is one of her sisters sitting down behind you, who is very pretty...

【中野訳】
だけど、まだその妹がひとり、君のうしろにいるじゃないか。どうして美人だし、...

【富田訳】
でも、あの妹の一人で、君のすぐうしろに腰かけている娘も、とてもきれいだよ。

そこでダーシーの返答。

…and turning around, he looked for a moment at Elizabeth, till catching her eye, he withdrew his own and coldly said, “She is tolerable;but not handsome enough to tempt me;…

【中野訳】
ミスタ・ダーシーは振り向いて、ちょっとエリザベスを見たが、視線がぶつかると、つと眼をそらせて冷ややかに言った。「まあ、相当じゃあるねえ。だが、とても心を動かされるほどのもんじゃない。

【富田訳】
彼はふりむいて、ちょっとエリザベスを見ていたが、彼女と視線があうと、眼をそらして冷ややかに言った、「がまんはできるけど、僕が誘惑されるほどの美人じゃないね。

流れとして、自分では3の解釈、fairy good 「まあまあ、そこそこ」が合っているような気がします。

まあ、きれいと言えばきれいだけどね

そして、

but not handsome enough to tempt me

とつながったほうが自然なような気がします。

どうでしょう?

ちなみに、映画「プライドと偏見」の台詞では、

perfectly torelable
Not hansome enough to tempt me.

となっており、字幕は次の通り。

悪くはない
僕には今一つだ

一応、べっぴんさんだと認めているので、3の解釈(そこそこ美人だ)ということになります。

誘惑というと…

次は tempt について。

“She is tolerable;but not handsome enough to tempt me;

【中野訳】
まあ、相当じゃあるねえ。だが、とても心を動かされるほどのもんじゃない。

【富田訳】
がまんはできるけど、僕が誘惑されるほどの美人じゃないね。

me が me と斜体になっています。

おまえ(ビングリー)はそう言うけれど、俺は、という意味か、もっと高慢に、「俺は天下のダーシー様だ。あんな tolerable な小娘なぞ眼中になし!」という意味か。

何はともあれ、me が斜体になっていることで、興味なし、ということが強調されています。

訳文に戻ります。

富田訳の「誘惑させるほどの」というのは、大げさでは?

たしかに tempt を調べると、どの辞書でも真っ先に「誘惑する」という訳語が載っています。

でも…

僕が誘惑されるほどの…

なにげに、やっぱり、違和感あり。

中野訳の、

心を動かされるほどの…

の方がよいと思います。

エリザベスの心中、いかばかり?

次の英文。

そんなことを言ったダーシーが去り、エリザベスが残りました。

…;and Elizabeth remained with no very cordial feelings towards him.

¶cordial/ーディアル,ーヂャル(形容詞) = warm and friendly (COD)

この英文の翻訳比べ。

【中野訳】
エリザベスは、彼に対して、はなはだ心平らかならぬものがあった

【富田訳】
エリザベスは後に残ったが、ダーシー氏にはあまり好感が持てなかった

中野訳は、かなりイヤな気持ちになった。

一方、富田訳は、好きにはなれなかった。

英文は、

with no very cordial feeling towards him

cordial feeling 「親しく(友好的に)感じること,親しみ」に、 no という強い否定語(…など全くない,…どころじゃない)が付います。

だから「彼に対して親しみを感じるどころじゃない,(とっても)イヤな気持ちだ」になるはずです。

富田訳は否定的ではありますが、否定の度合いが弱い気がします。

どうでしょう?

次の英文。

She told the story however with great sprit among her friends

【中野訳】
だが、彼女はすっかり上機嫌で、その話をみんな友達にふれてまわった。

【富田訳】
けれども彼女は大はしゃぎで、友だちの間にその話をふれてまわった。

ここは大きな違いはないと思います。

あえて、ケチをつけるとすると、富田訳「友だちの間にその話を…」の、「の間」は余計かな、と。

「友だちにその話を…」で十分だと思います。

問題は次の文。

エリザベスが友だちにその話をふれてまわった理由。

for she had a lively, playful disposition, which delighted in any thing ridiculous.

【中野訳】
もともと、朗らかで、茶目っ気たっぷりの彼女は、こうしたバカげた話というと、かえって面白がるのだった。

【富田訳】
というのは、彼女は、ちょっとでもおかしいことがあると、うれしくなる、快活なたわむれ好きな性質をもっていたから。

富田訳、

快活なたわむれ好きな性質をもっていたから

は、日本語として問題ありだと思います。

たしかに、disposition に、「性質」という訳語はあります。

ですが、

快活なたわむれ好きな性格だったから

の方が人間を描写するには自然だと思います。

そして、

快活なたわむれ好きな性質をもっていたから

ん…

どうしても、「快活」と「たわむれ好き」を使うなら、

快活で、たわむれ好きな性格だったから

のほうが、まだ日本語として自然だと思います。

どうでしょう?

中野訳、

朗らかで、茶目っ気たっぷり

は、とってもうまい訳だと思います。

エリザベスも案外・・・

そんな茶目っ気たっぷりのエリザベス。

が、やっぱりダーシーの発言を根に持っています。

舞踏会の次の日、仲の良いミス・ルーカスがエリザベスを訪問。

話題は当然、舞踏会での出来事。

ダーシーは見た目は立派、家柄も良し、おまけに大金持ち、とくれば、あの高慢さはしょうがない、腹を立ててもしょうがない、とルーカス。

続いてルーカスは、

If I may so express it, he has a right to be proud.

【中野訳】
「妙な言い方かもしれませんけど、いわば高慢になる権利があるんですもの」

【富田訳】
「そう言っちゃなんですけど、あの方は高慢になる権利があるんですわ」

そしてエリザベス。

"That is very true," replied Elizabeth, "and I could easily forgive his pride, if he had not mortified mine."

¶mortify 感情を傷つける,恥をかかせる。

【中野訳】
「そりゃそうねえ」とエリザベスがうなずく。「だから、わたしだって、あの人の高慢、結構なにかゆるせるような気がするの。ただ、それで、わたしのほうの誇りが傷つけられるんじゃ、たまらないけどね。

【富田訳】
「おっしゃる通りよ」とエリザベスが答えた、「わたしだって、あの方がわたしの高慢を傷つけたのでなかったなら、すぐにでもあの方の高慢を許してあげられたと思うわ」

やっぱり根に持ってたんだ、エリザベス。

ますます好きになりました。

それはともかく、mine の二人の訳文。

minehis pride を受け継いだ代名詞で、つまり my pride

中野訳は、

わたしのほうの誇り

富田訳は、

わたしの高慢

富田訳、「わたしの高慢を傷つけたのでなかったなら」は、はっきり言って、誤訳だと思います。

そもそも日本語として、変。

これではエリザベスは自分の高慢さを誇りにしている、ということになってしまいます。

中野訳では、pride をダーシーには「高慢」、エリザベスには「誇り」と訳し分けています。

当然、こちらが正しい解釈だと思います。

参考にすべきです。

富田訳は中野訳より約30年後に出版されました。

富田訳の「まえがき」に、

他に「自負と偏見という題名で一、二邦訳があるはずである。

と書いています。

文字通りにとれば、中野訳は参考にしなかった、ということ。

中野訳もまだ流通しており、出版社も違うので「参考にした」とは書けないと思いますが、自分の考えでは、すでにある翻訳は参考にすべきだと思います。

どんな本でも。

訳している最中に、先に出た翻訳を参考すると、どうしても影響されてしまうと思うので、訳し終えたあと、比べてみるべきだど思います。

自分の方がうまく訳せていたら、それでよし。

先に出た翻訳のほうが良かったら、もっと良い訳を考える。

そのほうが良い翻訳ができるはず。

どうでしょう?

太字のところ、どう思うでしょう?

最後の引用は長いので、原文・中野訳・富田訳だけを載せます。

比べてみてください。

ダーシーがエリザベスの魅力に気づき始めた場面です。

Mr. Darcy had at first scarcely allowed her to be pretty;he had looked at her without admiration at the ball;and when they next met, he looked at her only to criticize. But no sooner had he made it clear to himself and his friends that she had hardly a good feature in her face, than he began to find it was rendered uncommonly intelligent by the beautiful expression of her dark eyes. To this discovery succeeded some others equally mortifying. Though he had detected with a critical eye more than one figure of perfect symmetry in her form, he was forced to acknowledge her figure to be light and pleasing;and in spite of his asserting that her manners were not those of the fashionable world, he was caught by their easy playfulness.

【中野訳】
はじめはエリザベスを、ほとんど美人とは認めていなかった。舞踏会で見たときも、感心するどころか、次に会ったときでさえ、ただあら探しのつもりで眺めていただけだった。ところが、彼自身に対し、また友人たちに対して、いったいあの顔のどこに取柄がある?などと、はっきりそう言い切ったその瞬間から、なんと、はじめて気がついたことは、めずらしく聡明そうなその顔立ち、そしてそれが、あの美しい黒い瞳の表情によって見事に生かされている、ということだった。一つ見つけると、つぎつぎと困った発見がつづいた。批評的な目で見ると、たしかに彼女の容姿には、完全な均衡を欠く欠点がいくつかある。だが、それにしても、全体として容姿の軽快さは認めざるをえない。またその作法は、とうてい上流社会のそれではないと言ってみても、さてそのいたずらっぽくて、屈託のない様子を見ると、なんとなく心惹かれざるをえないのだった。

【富田訳】
ダーシー氏は、最初は彼女をきれいだとは思わなかった。彼は舞踏会で彼女を見ても、きれいともなんとも思わなかった。その次に会った時には、ただ批評するために彼女を見た。けれども、彼女の眼鼻立ちには一つとして取り柄がないということを、自分でもはっきり知り、友人たちにもはっきり言ったすぐ後で、彼女の黒い眼のうつくしい表情が顔全体をなみなみならず聡明に見せていることに、彼は気づきはじめていた。これにつづいて続々と、同じように当惑させられることが発見された。彼は批評的な眼で、彼女の体つきに均斉の欠けている点をいくつも発見してきたけれど、その容姿の軽快で感じのいいことは、どうしても認めぬわけにはいかなかった。彼は、彼女の作法は上流社会のものではないと主張したけれど、その軽快で剽軽な風には心をひかれた。

「剽軽」は「ひょうきん」と読みます。

古いが、「俺たちひょうきん族」の「ひょうきん」です。

結局のところ。

自分は好きな本は原文と翻訳の両方読みたくなります。

どちらで読んでも楽しめます。

富田訳も、普通に通読したときはとってもすばらしく感じました。

ですが、前回、中野訳と富田訳の両方を書き写していると、いろいろと思うころあり。

翻訳は、

結局は日本語の問題

かな、と。

今回はダーシーのようにあら探しになってしまいました。

そしてあら探しをしたあと、自分の高慢と偏見に気づきました。

そして、大いなる「高慢と偏見」。

人を批判するのはイヤな気持ちだったので、富田さんの良いところはないかと、いろいろ調べてみました。

そして、自分がえらく間違っていたことに気づきました。

現在出版されている富田訳「高慢と偏見」の奥付をみると、

1994年7月18日 改版第1刷発行

となっています。

ですから、改訂版かな?と思ってました。

が、調べたところ、富田さんは1971年にお亡くなりになられたことが判明しました。

ということは、現在出版されている岩波文庫版は、1994年発行とはいえ、実質、翻訳の復刊、ということになります。

実は富田さんは1950年に「高慢と偏見」の翻訳をされていました。

中野さんの「自負と偏見」は1963年。

富田さんの翻訳のほうが先です。

ということは、上で書いた、

富田訳は中野訳より約30年後に出版されました。

というのは間違い。

間違いではないが、間違い。

正しくは、

現在流布している富田訳は、中野訳より約30年後に出版されたが、富田さんが翻訳したのは、中野さんの13年前。

です。

恥のついでに、自分で書いたことを引用。

中野訳もまだ流通しており、出版社も違うので「参考にした」とは書けないと思いますが、自分の考えでは、すでにある翻訳は参考にすべきだと思います。

どんな本でも。

訳している最中に、先に出た翻訳を参考すると、どうしても影響されてしまうと思うので、訳し終えたあと、比べてみるべきだど思います。

自分の方がうまく訳せていたら、それでよし。

先に出た翻訳のほうが良かったら、もっと良い訳を考える。

そのほうが良い翻訳ができるはず。

ほんと、偉そうに語ってしまいました…

富田訳の奥付、

1994年7月18日 改版第1刷発行

という文字だけで、1994年に富田さんが改訳した、という偏見を持ってしまいました。

そして、高慢な態度で富田さんの翻訳批判をしてしまいました。

富田さんは実はとても偉い方だったのです。

「高慢と偏見」のまえがきに、

わたくしはオースティン女史のものを今までに二篇訳している。いずれも邦訳のなかったものである。

とあります。

どの作品、とは書いてませんが、おそらく次の二つ。

  • Northanger Abbey
  • Persuasion

とくに、Persuasion に富田さんがつけた邦題、「説きふせられて」は素晴らしいと思います。

ジェーン・オースティン研究、ということでは、富田さんは先駆者の一人、でした。

そんな偉い方を批判したとは、オースティン・ファンを自認する自分としては、愚の極み。

富田さんに、謝罪。

ただ、少しだけ弁解を。

岩波書店よ、復刊だと書いてくれ。

富田さんの「まえがき」や「解題(あとがき)」には日付がありません。

ちなみに、中野さん訳の「あとがき」の最後には、

(一九六三年六月)

と書いてあります。

富田さんが書いていないので、本のどこかに、

オースティンの名作、半世紀ぶりの復刊。

とでも書いてあれば…

以上、弁解でした。

次こそは、ほんとの翻訳比べ、を。

「Pride and Prejudice」の最新の翻訳は、ちくま文庫版、「高慢と偏見」(1993年)。

自分はまだ買っていません。

実は最新の翻訳本を買って、「三つの翻訳比べ」をしようとしましたが、あえてヤメました。

近く購入する予定。

買って、読み終えたら、「翻訳比べ・アゲイン」を書きたいと思います。

中野好夫さん訳から40年、中野訳を超えているかどうか、楽しみです。

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