2006年11月19日
ベトナム戦争と第二次世界大戦の起源
「The Black Echo」のレビューの中で、主人公のハリー・ボッシュがベトナム戦争の記憶に悩まされていることについて、
アメリカ人はいまだにベトナム戦争の影を引きずっているようです。
アメリカ人の書いたものには、この作品に限らず様々な作品にベトナム戦争への複雑な思いが描かれています。
その思いを日本人が本当に実感できるかといえば、なかなか難しいのですが。
と書きました。
そこで今回は、
そもそもなぜベトナム戦争が始まったのか
なぜ暗い影をいまだにアメリカ人の心に落としているのか
について、ベトナム撤退を敢行したニクソン政権の国務長官であったキッシンジャー( Henry Kissinger )の「Diplomacy」を読みながら考えてみたいと思います。
ベトナム戦争の概要
ベトナムはフランスの植民地であった。
第二次大戦時、日本軍がフランスを追い出したが、敗戦と同時に日本軍は撤退する。
支配者がいなくなったベトナムでは、ホーチ・ミンが独立を目指して共産主義国家、ベトナム民主共和国を建設する。
しかしフランスは再占領に乗り出し、ベトナム独立戦争(第一次インドシナ戦争)が始まる。
だがフランスにはもう戦争を続ける力は残っておらず撤退。
以降は正式にアメリカが軍事介入し、アメリカ率いる南ベトナムとホーチ・ミン率いる北ベトナムとの間でいわゆるベトナム戦争が始まる。
二十年にわたる戦いの後、アメリカは完全撤退する。
アメリカ撤退後、北ベトナムが南を吸収し、ベトナム社会主義共和国が建設された。
初の敗北。
アメリカはベトナム戦争に敗北した。
勝てなかった戦争はアメリカにとっては初めての経験であった。
多い時には五十万以上の兵力を投入し、週に千人の死傷者が出たこともある。
それでも勝てず、十年にわたって守ってきた南ベトナムを放棄した。
アメリカ撤退後、北ベトナムは南ベトナムを飲み込む。
南の住民の多くは虐殺され、強制収容所送りとなった。
戦争末期、アメリカ国内では社会が分裂するほどの反戦運動が吹き荒れていた。
戦争経験は誰にでも傷跡を残すであろう。まして勝てなかった戦争ではさらに傷は深くなる。
自分が現地で戦っている間、母国では反戦運動が起きていた。自国民に非難されながらの戦いは兵士にとって複雑な思いであっただろう。
そして、自分たちが死守してきた南ベトナムがアメリカの撤退後、北に蹂躙されるのを報道で知る思いは、いかばかりであろうか。
アメリカの自由と民主主義。
キッシンジャーの考えでは、アメリカが国際関係を論じ、戦争をするにも独自の理想論が根底にある、というものである。
American society did not debate, as others might have, the practical shortcomings of its policies but America’s worthiness to pursue any international role. It was this aspect of the Vietnam debate that produced wounds which have proved so painful and difficult to heal.
アメリカ社会は他の国々とは違い、どんな国際的役割を果たす場合でも、その政策の実際問題としての欠点を論じるのではなく、その政策を遂行だけの(道徳的)価値がアメリカ自身にあるかどうかを論じた。ベトナム戦争をめぐる論議では、この側面こそが、苦痛に満ち、癒しがたい傷をつくり出したのである。
-「Diplomacy」
America was obliged to fight for what was right, regardless of local circumstances, and independent of geopolitics.
地域それぞれの事情や地政学とは関係なく、アメリカは正義のために戦うべきであるとされた。
-「Diplomacy」
フランスのベトナム撤退後、それまではフランスを後方から支援するだけであったアメリカが自ら軍事介入することを決めたジョン・F・ケネディーは、最初にして最後となった大統領就任演説でこう述べた。
”. . . Let every nation know, whether it wishes us well or ill, that we shall pay any price, bear any burden, meet any hardship, support any friend, oppose any foe to assure the survival and the success of liberty.”
「. . . 世界の国々に教えよう、私たちの味方にも敵にも。教えようじゃないか。私たちはいかなる犠牲でも払う。どんな重荷でも背負う。いかなる困難もいとわない。全ての友を助け、全ての敵に立ち向かう。自由が生き延び、自由が勝利するのを確実にするために」
-「Diplomacy」
ケネディーの前の大統領、アイゼンハワーはこう言った。
”Conceiving the defense of freedom, like freedom itself, to be one and indivisible, we hold all continents and peoples in equal regard and honor. We reject any insinuation that one race or another, one people or another, is in any sense inferior or expendable.”
「自由の防衛は、自由それ自体と同様、一にして不可分である。私たちは全ての大陸と民族に対して等しく配慮し敬意を払う。私たちは、ある人種、ある民族が他より劣っており犠牲になってもいいという考えを、いかなる意味でも拒絶する」
-「Diplomacy」
以降、アメリカの歴代大統領は全員、同じような言葉で自由と民主主義を唱えてきた。
それを偽善と言うことも出来る。
現にアメリカが事実上支配していたハワイを(民主主義を広めるためと称して)アメリカの州としたのは第二次大戦後であり、黒人に公民権を与えたのはなんと1960年代であった。
自国がしていることを他国にはするなといい、自国の国民にさえ与えていないものを他国に求めるのは明らかに矛盾といえる。
アメリカの自由や民主主義への思いを語るのは自分には手に余ります。
しかし、アメリカは自国の自由と民主主義を守るためには武器を取ることについては議論の余地はないでしょう。
なぜか日本では自由と民主主義は非戦・非武装と表裏一体となっていますが。
日本は戦後アメリカに占領された。
いまだに日本はアメリカの属国であるという主張もある。
だがもし戦後に日本を占領したのがソ連であったら、属国という言葉の本来の意味での、ソ連の属国になったのは確実である。
その状況下で自由と民主主義を勝ち取るためには武器を取って戦うしかなかったであろう。
日本は水と安全だけでなく、自由と民主主義もタダだと思っている。
しかしそれの達成に至る歴史を見れば、それは流血の歴史といってもいい。
といっても、その歴史を語るのは自分には知識、能力ともに不足しているので語れませんが、『外交』の監訳者である岡崎久彦氏のオランダ独立戦争を描いた「繁栄と衰退と」を読むと、自由と独立のためにいかに多くの血が流れたかがよくわかります。
共産主義の拡大。
もちろん、自らの理想のためだけにアメリカがベトナムに関わることになったわけではない。
現実問題として、観念的な理想論ではない具体的な脅威、共産主義(つまりソ連)の拡張があった。
第二次大戦後、ヨーロッパでは東半分がソ連の手に落ちた。
アジアでは中国で共産党が勝利した。
朝鮮半島でも共産主義が勢力を伸ばそうとし、朝鮮戦争が始まった。
西側はベトナムへの共産主義の侵入をソ連の世界征服への一つと考えた。
しかし、ベトナムは当時の世界では重要とはいえない国であった。
そもそも国といえるかどうかさえ、微妙であった。
国家となるのは、皮肉なことにベトナム戦争を経験することによって達成されたものである。
そんな当時は国とさえ呼べなかったベトナムをアメリカが守ろうとした理由は、いわゆる「ドミノ理論( Domino Theory )」である。
ドミノ理論。
ドミノ理論とは、ベトナムが共産主義者の手に落ちれば、ドミノがパタパタと倒れるように周辺諸国が次々に倒れ、最後には日本も共産主義を受け入れざるを得ない、という考え方である。
アイゼンハワーがチャーチルに送った書簡に「もしインドシナが共産主義者の手に落ちれば( If . . . Indochina passes into the hands of the Communists . . . )」に続く文章に、
The economic pressure on Japan which would be deprived of non-Communists markets and sources of food and raw material would be such, over a period of time, that it is difficult to see how Japan could be prevented from reaching an accommodation with the Communist world which would combine the manpower and natural resources of Asia with the industrial potential of Japan.
日本が非共産圏の市場と食料、原材料を奪われたとしたら、その経済圧迫の大きさはいかばかりでしょうか。いずれ日本は共産主義世界を受け入れざるをえなくなり、そうなれば共産主義はアジアの労働力と天然資源を日本の工業力と結びつけることが可能になると考えざるをえません。
-「Diplomacy」
とある。
今から思うと壮大すぎる理論であるが、その頃はソ連の自己主張だけでなく、西側諸国の中でさえ、共産主義の優位が唱えられていた。
In the immediate postwar era, communism still possessed substantial ideological dynamism. A demonstration of the bankruptcy of its economic management was another generation away.
大戦直後、共産主義にはイデオロギー的ダイナミズムが実際にあった。その経済政策の破綻が露呈するのは一世代後のことであった。
-「Diplomacy」
しかしそれほど共産主義の拡大を脅威とみなしているのであればアメリカは最初から軍事介入するべきであった、という考え方もある。
アメリカが直接に軍事介入するのはベトナムに共産勢力が侵入してから二十年近く経ってからであった。
その理由はアメリカには自ら軍事介入する余裕などなかったのだ。世界中でアメリカは共産勢力と戦っていた。ヨーロッパではソ連と直接対峙し、アジアでは朝鮮戦争を戦っていた。
For stalemate in Korea had destroyed―at least for a time―America’s willingness to fight another land war in Asia.
なぜならアメリカは朝鮮戦争で手詰まりに陥っており、少なくともしばらくの間はアジアでまた地上戦を行いたくはなかった。
-「Diplomacy」
ベトナムにおけるアメリカの決定はフランスを支援することであったが、それは破綻するのが確実な政策であった。
前に述べたが第二次大戦まではベトナムはフランスの植民地であった。
大戦後、フランスはベトナムで共産勢力を相手に戦っていた。フランスにしてみれば相手がたまたま共産主義者であっただけで、本来の目的は植民地奪還である。
アメリカは反植民地主義を唱えた。
そしてまさに植民地奪還戦争を行っているフランスを支援することを決定した。
その矛盾の解決のためにアメリカが取った方針は、
Not wanting to be tarred as a party to colonialism, both the Joint Chiefs of Staff and the State Department sought to protect their country’s moral flank by pressing France to pledge eventual independence.
植民地主義に組みしているという汚名を避けるため、統合参謀本部と国務省はフランスにやがては(ベトナムの)独立を認めるように迫ることで道徳を守ろうとした。
-「Diplomacy」
勝利後に手離すための戦いはフランスの得意とするところではなかった。
しかしアメリカの理想論がどうであれ、フランスに必要なのは現実論としての支援であった。
フランスは軍事問題としてベトナムを再支配出来ればよかった。ベトナムを占領下に置いているという既成事実さえあれば、アメリカの圧力などはダラダラと続く会議の問題になることは確実であった。
だが、ベトナムを単独で勝ち取る力などフランスにはもう残っていなかった。
そしてアメリカが表舞台に出て来ることになる。
ミュンヘンの記憶。
アメリカが直接ベトナムに関わることになった要素として、理想論、現実問題としての共産主義の拡大を述べてきたが、もう一つ大きな要因がある。
それはアメリカの指導者たち自らの体験、つまりヒトラーに対して妥協に妥協を重ねた結果に起きた大悲劇の記憶である。
そしてその象徴が、連合国側がヒトラーに妥協し、その要求を全て認めることとなった1938年に開かれたミュンヘン会議。
ベトナム戦争を率いたアメリカの指導者たちは第二次大戦を経験していた。
なぜ第二次大戦はあのような大惨事になってしまったのか、ヒトラーという人間が巨大化する前に行動を起こしていれば被害は少なくて済んだのではないか、という疑問を指導者は強く持っていた。
This commitment was especially pronounced among the generation of American leaders who had in their youth witnessed the tragedy of Munich. Burned into their psyches was the lesson that failure to resist aggression―wherever and however it occurred―guarantees that it will have to be resisted under much worse circumstances later on.
こうした(いかなる場所でも共産主義に対抗するという)コミットメントは、とりわけミュンヘンの悲劇を青春時代に目撃した世代のアメリカの指導者達が主張したことであった。いつであれどこであれ、侵略への抵抗に失敗したならば、のちにずっと悪化した条件の下でそれに対抗しなければならないという教訓が彼らの魂に焼きついていた。
-「Diplomacy」
そこで、ベトナム戦争を率いたアメリカの指導者たちの記憶に焼きついた「妥協の教訓」、つまり第一次大戦終了から第二次大戦に至る過程を考えてみたいと思います。
第一次世界大戦の悲惨さ。
The Allied side specialized in couching the war in moral slogans such as “the war to end all wars” or “making the world safe for Democracy”
連合国はこの戦争(※第一次世界大戦)を「全ての戦争を終わらせるための戦争」や「民主主義にとって安全な世界をつくる」といった道徳的スローガンで言い表した。
-「Diplomacy」
第一次大戦から三十年と経たずに第二次世界大戦が起こるのであるから、今ではこの連合国の発言は楽観さの象徴として語られることが多い。
しかし、指導者たちが未来への希望を唱えたのには十分な理由があった。第一次大戦は人類史上かつてないほど悲惨なものであったのだ。
日本人には第二次大戦の記憶しかないが、ヨーロッパが第一次大戦で負った傷跡は想像出来ないくらいに大きなものだった。ドイツ、ハプスブルク家などの王朝が崩壊し、ロシア王国では共産革命が起こった。
戦勝国であるイギリスでは、第一次大戦におけるイギリス兵の戦死者は、第二次大戦の倍以上であった。
とりわけイギリスのエリートがこの大戦によって被った人的被害は圧倒的なものであった。一九一四年の時点で、五十歳以下であったイギリス貴族の男子の約二〇パーセントが戦死したといわれる…オックスフォードやケンブリッジのキャンパスから出生した同学年の友人たちの三人に一人は、二度と帰らぬ人となったのである。
-中西輝政著「大英帝国衰亡史」
イギリス軍の将校たちは貴族の子弟であった。
イギリスの貴族は名門大学に進み、軍の将校となる。
日本で「突撃!」というところを英語では「Follow me!(俺のあとに続け!)」という。
貴族は真っ先に死んだ。
それが貴族の責任であり、かつ誇りでもあった。
ベルサイユ条約の意図。
第一次大戦の講和条約であるベルサイユ条約では、第一次大戦の全責任はドイツにある、という考えのもと、ドイツには多くの過酷な条項が課せられた。
そのひとつ、ありえない額の賠償金は戦勝国のドイツへの恨みの賜物であった。
It was absurdly high . . . a sum which would have necessitated German payments for the rest of the century
それは不条理なほど高い額であった . . . ドイツがこれを支払うとすれば今世紀いっぱいかかる額であった。
-「Diplomacy」
賠償額は徐々に緩和されたが、領土割譲や軍備制限などでドイツは弱体化した。
そもそもベルサイユ条約はドイツを半永久的に弱体化させるためのものである。
そのドイツがヒトラーの登場後、再び強大化し、最後には第二次世界大戦へと至る。
ヒトラーの登場以前にもドイツ帝国再興の萌芽はありましたが、ここではヒトラー以後に限定します。
ヒトラーの登場とドイツ拡大。
ヒトラーの首相就任(1933年)以後、ドイツは国際連盟脱退、再軍備宣言など、次々にベルサイユ体制(※第一次大戦以後の国際関係)を覆す行動を起こしていく。
しかし、ドイツの再軍備に大いなる危惧を感じるはずのヨーロッパ諸国は何もしなかった。
France dared not act alone, and Great Britain refused to act in concert.
フランスはあえて一国で行動を起こそうとはしなかったし、イギリスは協調して行動することを拒否した。
-「Diplomacy」
フランスは第一次大戦でドイツに完敗した。
結果として戦勝国にはなったが、それはイギリスとアメリカのおかげであった。
よって、ドイツの強大化はフランスにとって悪夢だった。
その悪夢ゆえ、唯一の頼みはイギリスだった。
Its chief problem still remained how to find security if Germany rearmed and Great Britain refused a guarantee.
フランスの主なる問題は依然として、ドイツが再軍備をし、それでもイギリスが(フランスとの同盟という)保障を拒否した場合どうやって自国の安全を確保するかであった。
-「Diplomacy」
イギリスは頑として保障を与えることはなかった。
イギリス外相シモン卿( Sir John Simon )いわく、「なぜならイギリスの世論が支持しないからだ(Because “ public opinion in England would not support it.”)」。
イギリスはドイツ再軍備をそれほど危険視していなかったのである。
チャーチルを除くイギリスの主導者は、ヒトラーを過小評価していた。
頭のおかしな奴だとは思ったが、彼らはヒトラーを心理学上の問題ととらえ、戦略上の危機とは考えなかった( they treated Hitler as a psychological problem, not a strategic danger)。
軍事力の意味。
軍事力の意味は軍事力そのものにある。
たとえば、ある王国が他国を侵略する意図など全くないが王様が軍事マニアなので軍備増強をしたとする。王様や国民は完璧な平和主義者で実際に戦争する気などサラサラない。
しかし隣国にとっては意味が違う。
意図ではなく軍事力そのものに対して脅威をもつ。
王様の気がいつ変わるかわからない。
王様の気が変わらなくても、王様が急死し好戦的な皇太子が後を継いだら、その軍事力は侵略の意図のあるものに一変する。
政治家たちはヒトラーの意図を探ってばかりで、現実に目を向けることを拒否した。
The leaders of the democracies refused to face the fact that, once Germany attained a given level of armaments, Hitler’s real intentions would become irrelevant.
民主主義の指導者たちは、いったんドイツがある程度の軍事力を達成すれば、ヒトラーの真の意図など無意味になってしまうという現実に目をつぶった。
-「Diplomacy」
ヒトラーには領土拡大の意思がある。
しかしドイツが領土を拡大するには障害があった。
それが、ラインラントの非武装化で、フランスへの緩衝地帯としてベルサイユ条約に盛り込まれた条項。
ラインラントの非武装化。
ラインラントの非武装化によって、ドイツはラインラントへのフランス軍の進入という可能性に常にさらされており、ヒトラーの当面の狙いである東ヨーロッパに手を広げようにも、西が無防備では東へも進めなかった。
If Hitler could prevail in the Rhineland, Eastern Europe would be at Germany’s mercy. None of the new states of Eastern Europe stood a chance of defending themselves against a revisionist Germany, either through their own efforts or in combination with each other. Their only hope was that France could deter German aggression by threatening to march into Rhineland.
もしヒトラーがライラントを手中におさめれば、東ヨーロッパはドイツの思うままになってしまうだろう。誕生したての東ヨーロッパのいかなる国も、自国のみではもちろん、束になっても体制打倒をめざすドイツに対抗できる可能性などなかった。東ヨーロッパ諸国に残された希望は、フランスがラインラントへ進駐すると脅し、ドイツの侵攻を抑止することだけだった。
-「Diplomacy」
しかし、ヒトラーはラインラント問題も特有の直感で解決した。
ドイツに不信感を持ち、対ドイツの一員となる可能性のあったイタリアがイギリスとフランスの外交の失策でドイツ寄りに傾いたとき、ヒトラーはラインラントへ進駐する。
しかしそれは大きな賭けだった。
徴兵が開始されまだ一年と経っていなかった( Conscription had been in effect for less than a year )し、ラインラントに進駐したドイツ兵力は二万人ほどであったのに対し、動員なしでもフランス常備軍は五十万人をあてにできた( the German force entering the Rhineland numbered about 20,000, while the French standing army could count on 500,000 even without mobilization )のだ。
だがそれでもフランスは動かなかった。
フランスは自国を守る唯一の方法はイギリスとの同盟だと考えていたが、イギリスはドイツのラインラント進駐に、戦争という危険を冒すほどの価値を見出さなかった。
チャーチル以外のイギリスの政治家や国民は、第一次世界大戦時のアメリカ大統領、ウィルソンが唱えた「民族自決、戦争ではなく平和的解決手段で」という考えを信望していた。
「民族自決( self-determination )」の考えからすれば、ラインラントはもともとドイツの領土でありドイツ人がドイツの土地を守ることには正当な理由があった。
ラインラントへのドイツ進駐の翌日、イギリス軍事大臣はドイツ大使にこう述べた。
. . . though the British people were prepared to fight for France in the event of a German incursion into French territory, they would not resort to arms on account of the recent occupation of the Rhineland. . . .[M]ost of them [the British people ] probably took the view that they did not care “two hoots” about the Germans reoccupying their own territory.
ドイツがフランス領土へ侵攻した場合には、イギリス国民はフランスのために戦う覚悟はある。しかし先日のラインラント占領を理由に、武力に訴えることはないであろう。イギリス国民の大半は、ドイツがドイツ自身の領土を再占領することには ” 全く “ 構わないという立場をとるであろう。
-「Diplomacy」
フランスは一人で動けず、イギリスは宥和政策を取り続ける間にラインラント進駐を果たしたドイツは、東の弱小国を思い通りにしていく。
最初の獲物はオーストリアであった。
ドイツ、オーストリア併合。
オーストリアは人種的にはドイツ人であり、かつてはハプスブルク帝国というヨーロッパの大国であったが第一次大戦で解体され弱小国家と化していた。
After a month of Nazi threats and Austrian concessions and second thoughts, on March 12, 1938, German troops marched into Austria. There was no resistance, and the Austrian population, much of it deliriously joyful, seemed to feel that, shorn of its empire and left helpless in Central Europe, it preferred a future as a German providence to being a minor player on the Central European stage.
一ヶ月にわたるナチの脅迫とオーストリアの度重なる譲歩と逡巡の結果、1938年3月12日にドイツ軍はオーストリアに進駐した。抵抗など全くなく、オーストリア国民の大半は狂喜乱舞していた。帝国を奪われ、中央ヨーロッパに頼りなく取り残されたオーストリア国民は、中央ヨーロッパという舞台でつまらない役回りを演じるよりもドイツの一州としての未来を望んだようであった。
-「Diplolmacy」
次にヒトラーはチェコスロバキア解体に進む。
ミュンヘン会議とチェコ解体。
チェコスロバキアのズテーテン地方はドイツ人の住む土地であった。
ヒトラーは当然、「民族自決」を要求する。
あくまで平和的手段で解決しようとするイギリス首相チェンバレン( Chamberlain )は、ヒトラーとの交渉で“神経が参ってしまった”( Chamberlain’s nerves snapped )。
ヒトラーはドイツ領内ではロンドンから最も遠いベルヒテスガーデンへチェンバレンを呼びつける。
69歳になるチェンバレンにとっては初の飛行機での旅行であった。
そして1938年9月、ナチ発祥の地であるミュンヘンに英仏独伊の四首脳が集い、チェコスロバキア解体(ズデーテン地方のドイツ併合)が決められた。
In March 1939, less than six months after Munich, Hitler occupied the rump of Czechoslovakia.
ミュンヘンから半年も経っていない1939年3月、ヒトラーはチェコスロバキアの残りの部分を占領した。
-「Diplomacy」
ズテーテン地方はドイツ人の人口が8割くらいであったので「民族自決」の原則に適うものであったが、ドイツとはいえない領土にまでヒトラーは手を伸ばしたことになる。
次はダンティヒとポーランド回廊の番であった。
ヒトラーはその際にもチェコスロバキア、オーストリアの解体・併合と同じ手法を使った。
ダンティヒ(自由都市)とポーランド回廊(当然ポーランド領)は、ドイツ人が多く住む地域でありドイツの領土であった頃もあった。
ポーランド回廊とは国境に海がないポーランドが、その土地があると海へ出られることになるので「(海への)回廊(=廊下)と呼ばれた。
ヒトラーの誤算。
ドイツ人が住む土地だからドイツが支配するのを各国は(戦争までして)反対はしないだろうとヒトラーは読む。
しかし、ミュンヘン会議から一年後の1939年、イギリスの態度は変化していた。
When Hitler laid claim to Danzig in 1939 and sought modification of the Polish Corridor, the issues at hand were essentially no different from those of the year before. Danzig was a thoroughly German town, and its free-city status flew as much in the face of the principle of self-determination as had adjudication of the Sudeten territory to Czechoslovakia. …Yet what had changed beyond Hitler’s comprehension was that, once he had crossed the line of what was morally tolerable, the same moral perfectionism which had formerly generated pliability in the democracies transformed itself into unprecedented intransigence. After Germany occupied Czechoslovakia, British public opinion would tolerate no further concessions;from then on, the outbreak of the Second World War was only a matter of time ― unless Hitler remained quiescent, which for him, proved psychologically impossible.
1939年、ヒトラーがダンティヒに対する要求を突きつけ、ポーランド回廊の見直しを求めた時、争点は一年前のものと本質的には全く同じものだった。ダンティヒは完全にドイツの町であったので、その自由都市としての地位は、チェコスロバキアに求めたズデーテン領土問題の解決と同様、民族自決という原則の前では消し飛んでしまうものだった。しかし民主主義諸国は、すでにヒトラーが理解できないくらい変わってしまっていた。ヒトラーが道徳的に許される一線を越えてしまった途端、以前は民主主義諸国を弱腰にしていたのと同じ道徳的完全主義が、かつてなかったほどの頑迷さへと変わってしまっていたのだ。ドイツのチェコスロバキア占領後、イギリス世論はこれ以上の妥協は許さなくなった。かくて、ヒトラーがおとなしくしていない限り(それは彼には心理的に不可能であったが)、第二次世界大戦の勃発は単に時間の問題となった。
-「Diplomacy」
チェコスロバキア占領がイギリスの考えを変えていたのだ。
なぜなら、
. . . the occupation of Czechoslovakia marked a watershed because it demonstrated that Hitler sought the domination of Europe and not self-determination or equality.
チェコスロバキア占領は分水嶺となった。なぜならヒトラーは民族自決や平等ではなくヨーロッパの支配を目論んでいることをはっきりと示したからである。
-「Diplomacy」
その後は歴史が示す通りである。
政治家たちは「妥協」が結局は高くつくのを学んだ。
. . . had the democracies forced a showdown with Hitler early in his rule, historians would still be arguing about whether Hitler had been a misunderstood nationalist or maniac bent on world domination.
もし民主主義諸国が支配初期のヒトラーと対決していたとしたら、ヒトラーは誤解されたナショナリストであったのか、それとも世界征服にとりつかれた狂人であったのか、歴史家たちはいまだに議論していることであろう。
-「Diplomacy」
もしドイツがラインラントへ進駐した際にフランスが動いていたならば、ヒトラー政権は即座に瓦解したのは間違いない。
The tuition fee for learning about Hitler’s true nature was tens of millions of graves stretching from one end of Europe to the other.
ヒトラーの正体を知るための授業料は、ヨーロッパの端から端まで並ぶ数千万の墓標であった。
-「Diplomacy」
ミュンヘン会議の総括として、
Munich has entered our vocabulary as a specific aberration―the penalty of yielding to blackmail. Munich, however, was not a single act but the culmination of an attitude which began in the 1920s and accelerated with each new concession.
ミュンヘンは常軌を逸脱した過ち、すなわち脅迫に屈した報いという意味で、われわれの辞書に言葉を残した。しかし、ミュンヘンとは単なる一行為ではなく、1920年代から始まり、妥協を重ねるごとにますます拍車がかかった政策の結末であった。
-「Diplomacy」
ミュンヘンの記憶。
ベトナム戦争時のアメリカの指導者たちにはこういう実体験があった。
ソ連の拡大も早めに阻止しなければ後により悲惨な状況下で戦わなければならなくなるという思いが強かった。
そして、アメリカは自らベトナムへと介入していくことになる。
と、アメリカが軍事介入するまでを書いただけですでに長くなってしまいました・・・
本当はベトナム戦争が徐々に泥沼化していき、最後には撤退せざるをえなくなる過程に悲劇があるのですが。
書き始めると際限がなくなりそうなので今日はとりあえず中断。
なお、引用したキッシンジャーの原文の訳は、難しいところはなるべくやさしい言葉で訳しました。
その際に岡崎久彦[監訳]の翻訳本、「外交〈上〉」、「外交〈下〉」を参考にしました。
キッシンジャーの『外交』は翻訳でいうと上巻で中世・近代から冷戦の始まりまで、下巻で冷戦の終わりまでをアメリカ外交の特殊性と現実の外交との葛藤を中心に描いています。
難解ですが、西洋の外交の歴史を学ぶにはいい本だと思います。
なお、キッシンジャーの『外交』は難しいので、第一次境大戦から冷戦の始まりまでの歴史を学ぶには、塚本哲也著 「エリザベート ハプスブルク家最後の皇女」がわかりやすいと思います。ヨーロッパの大国に翻弄されたハプスブルク家の皇女の生涯を中心に、ヨーロッパ外交の「エグさ」がうまく描かれていて、とても面白い本です。
また機会があれば、ベトナム戦争の続きを書きたいと思います。

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